夕凪亭別館

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第6回 2016.10.18.(共催:因島白滝公園保勝会)

いんのしまみち しげいみち おおはまみち なかのしょうみち とのうらみち かがみうらみち むくのうらみち みつのしょうみち はぶみち たくまみち 日本のみち

第6回20161018

p.91-92] [p.109-110]  [p.93-98] [p.99-100] [p.101-103] [p.104-105] [p.106] [p.107] [p.108] 

第6回20161018

レジメ [p.91-92][p.109-110

1。白滝山の現状について              [p.91-92

2。白滝山について  その6           [p.93-98] [p.99-100

3。村上水軍について その6      [p.101-103

4。田熊村四国  住原俊治          [p.104-105

5。田熊史跡巡り                   [p.106]       

6。干拓について                             [p.107]   

7。道元禅師へのアプローチ その6  何事も修行         [p.109-110

8。弘法大師空海へのアプローチ その6 「請来目録」  [p.109-110

9。柏原学・柏原正兄弟                                                        [p.108

10。小学校史 その1                                                           [p.109-110

 11。トランペット鼓隊50周年記念誌制作委員会 柏原裕      [p.109-110

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2017年Vol.2 第9回資料 第10回資料  第11回資料 第12回資料 第13回資料   第14回資料 第15回資料 第16回資料  第17回資料 第18回資料   第19回 資料  第20回資料 総目次

2018年Vol.3 第21回資料  第22回資料 第23回資料 第24回資料 第25回資料 第26回資料 第27回資料 第28回資料 第29回資料 第30回資料 第31回資料 第32回資料 総目次

 

壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録)

 

1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

10月4日の中国新聞「海賊の記憶①」で紹介された。また、10月2日午前、ちゅーピー子ども新聞の取材を受けた。表参道山門下石垣修復方法について、しまおこし課から諮問があったので区長会と連名で回答した。白滝山フォトコンテストのポスターと応募要項の配布を開始した。因島観光協会のホームページにも掲載。

 

2。白滝山について  その6 [p.93-100]

 今回は、柏原舒延著「霊峯白滝山の沿革」については、

(24)一観の功過自知録(続)    「反省ノ泉」昭和45年2月1日発行 第208号

(25)一観伝道物語         「反省ノ泉」昭和45年4月1日発行 第210号 

(26)一観伝道物語         「反省ノ泉」昭和45年5月1日発行 第211号 

(27)一観の功過自知録(ラジオで放送さる)        

                「反省ノ泉」昭和45年6月1日発行 第212号

(28)一観伝道物語         「反省ノ泉」昭和45年7月1日発行 第213号

(29)観音講再興の由来       「反省ノ泉」昭和45年8月1日発行 第214号

の6回分を読む。[p.93-98]

 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の重井村貳番組(一部)を見る。現在との関係は次のようになる。二番組:ロ区の山田・有浜班、ハ区、ニ区の須越・須越奥班。[p.99-100] 

 

3。村上水軍について その6  [p.101-103]

    因島村上氏の系譜のうち、田中稔因島史考」のp.116-118を掲載した。丸本家、長右衛門家など他書と異なるところもあるが、わかりやすいのでまずこれを紹介する。長右衛門については代数を加えた。

田島分家。一代吉豊は田島地頭職を宛行(あてが)われ子息四郎吉則を田島へ住ませた。四郎吉則が田島の町づくりをするが、後に能島村上氏に属する。

 

大浜分家。大浜幸崎城主村上吉房は四代吉直の弟である。 

百島分家。百島茶臼山城主村上義高は大浜幸崎城主吉房の嫡子である。

岩城分家。岩城八幡山城主村上敬吉は六代吉充の弟。

鞆分家。鞆古城山城主村上亮康は六代吉充の弟。

田熊分家。竹島城主村上四郎左衛門直吉は六代吉充の弟岩城八幡山城主敬吉の子である。

 

4。田熊村四国    住原俊治     [p.104-105]

91 

5。田熊史跡巡り      [p.106]

 天授3年(1377)霜月15日の釣島箱崎浦の戦いの跡は田熊にもあるので関連史跡を巡る。併せて周辺の史跡も探訪する。

菅原神社(天神山城跡) 延喜年間(901年ごろ)菅原道真太宰府に左遷された途中、立ち寄ったことを記念して建久年間(1190年ごろ)に天満宮を祀った。また応永30年(1423)に尾道吉和鳴滝山城を落城してきた宮地大炊助明光が住んだ。北と東に4カ所の廓があった。樹高20m、周囲約7m、樹齢900年余りの楠は市の天然記念物(昭和36年指定)である。

大田熊 六代吉充の弟岩城八幡山城主村上敬吉の子竹島城主四郎左衛門直吉が島前城を居城とした。直吉を祖とし、神官、庄屋などを勤めた。田熊小学校の前身である久敬舎が慶応元年に村上萬之介により大田熊に開設された。

田熊小学校跡 重井小学校とともに明治6年因島の最初の公立小学校として誕生した。また慶応元年以来の前史もある長い歴史を持つ尾道市立田熊小学校は平成27年3月に閉校して尾道市因島南小学校となった。

亀甲山八幡神社 村上直吉らが現在地に築造。因島南部で唯一の八幡神社であり、田熊、土生、三庄の総鎮守神「三荘八幡宮」として崇められた。文政年間に火災。安政5年(1858)再建。本殿は三間社流造、屋根中央に千鳥破風。母屋丸柱は六百年を越す檜材。平面・妻面には動植物の多様な彫刻が組み込まれている。江戸末期の成功な神社建築で因島を代表する建造物である。昨年大修理が行われた。拝殿は明治42年のものであり、元の拝殿は絵馬舎として右側に移された。天保6年、あるいは安政5年に御神体を移した仮殿の跡が神踞石である。右手の因島護国神社因島遺族会が昭和41年に建立した。樹高10m以上、樹齢800年以上と言われるヤマモモは市の天然記念物(昭和36年指定)である。

浄土寺 岡野氏の菩提寺であった「善福寺」を起源とする。天正5年(1577)に村上氏の菩提寺であった長源寺が消失したので、村上直吉が岡野氏とはかって大改修をして真言宗に改めた。寛永3年(1750)全焼。天保3年(1832)再建。直吉墓、大田熊家墓地、岡野氏先祖碑、妙泰夫人墓などを見る。

岡野明神・藤原神社 天授3年(1377)の釣り島箱崎浦の戦いで、中庄茶臼山城主大鳥義康の弟宗義などが戦死した地と伝えられる。田熊岡野氏の祖である岡野対馬藤原通宗は元の名は今岡対馬守通宗という河野氏の子孫である。通宗には、この時戦死したという説と160年後天文6年(1537)霜月15日に亡くなったという二つの説がある。なぜ岡野に変えたのか、なぜ藤原神社が隣にあるのか、という疑問とともに謎である。

馬の墓 釣島箱崎浦の戦いでこのあたりまで逃げてきて馬を乗り捨てたので、則末という地名になったという説がある。宝暦十四年の村立実録帖に出てくる小社馬神は藤原神社のこととされているが、馬の墓とか馬塚と呼ばれるものの可能性はないだろうか。

 

92

島四国60番横峰寺 本四国が石鎚山近くの高所にあり、それに倣ったものか、大山トンネル近くの高所にある。現在は少し低いところに新築移転された。

春日神社 樫平宇賀之神社のこと。田熊農業発祥の地と言われる。

道標「右土生三庄道 左西浦重井道」と書かれた道標。竜王山と山伏山の間の峠(今は横山隧道が通っている)を経て、西浦峠へ通じている。

金栗池 安政柑発祥の地碑 田熊は八朔だけでなく、安政柑も発祥の地である。

弁財天 宮島より勧請されたものという。現在の拝殿は平成13年新築されたもの。

 

6。干拓について  [p.107]

 小学校社会科副読本「わたしたちのまち 因島」1994年3月p.109-112を読む。4年生の重井の干拓についての話である。

 

7。道元禅師へのアプローチ その6  何事も修行

 道元禅師が宋に留学した時、港で上陸許可を待っていた頃、食事係の老僧が椎茸を買いに来た。食事係のことを典座(てんぞ)という。その老典座に道元が、そういう煩わしいことはやめて座禅でもしておいたほうが良いでしょうと言った。すると、老典座はあなたは修行とは何かわかっていないと、笑った。それで道元は修行とは何か悟ったいう。

 今でも永平寺では、座禅やお経を読むことだけが修行ではなく、掃除をしたり食事をしたりその準備をしたりすることまで、すべてが修行だという。仕事でも家庭でも細々とした、いわゆる雑用の多さは多くの人が日々経験している。雑用こそが本務であり生活そのものだと、この挿話は教える。 

 

8。弘法大師空海へのアプローチ その6 「請来目録」

 空海は20年の留学予定を2年で切り上げ大同元年(806年)10月、博多津に帰ってきた。そして10月22日付で朝廷に「請来目録」を提出した。最澄と違って2年で帰るというのは法律違反であったから、物質的な面だけでもこれだけの成果を上げたのだから・・・という自負に似た弁明の意味もあったと思う。また、3月に桓武天皇崩御し、平城天皇が即位していたのであるから、なおさら自己を売り込む必要があったにちがいない。空海の苦しい立場は大宰府観世音寺で入京の許しが降りるのを2年ほど待っていることからも伺える。

 

9。柏原学・柏原正兄弟   [p.108]

 京都でシンポ工業(株)(現・日本電産シンポ:資本金25億92百万円、売上高443億円、社員2410名)を作った柏原学・柏原正兄弟は重井町川口のトウスヤで生まれた。 日本電産シンポは、1952年4月に我が国初の「無段変速機」メーカーとして誕生した、「トラクション技術分野」が得意な会社です。 また、その無段変速機の技術を伝統産業に融合させ、世界で初めて陶芸用電動ろくろを開発し、現在の陶芸文化の発展に貢献をした会社でもあります。(同社のHPより)

109

 柏原学氏が発明した「リングコーン無段変速機」は数々の発明賞に輝き、現在も製造販売されている。

 トウスヤとは唐臼(トウウス、カラウス)屋のことで、農業の傍ら、依頼に応じて唐臼を設置しに行くようなことをしていたのでついた屋号だと思われる。トウスヤは峰松神社参道の横にある。家の前には大浜往還(古道)が通っており、大浜から重井尋常小学校の高等科へ通った児童の通学路であったから、久保田権四郎氏のことも当然耳に入ったことであろう。また、道沿いに重井村四国77番道隆寺がある。なお、柏原学氏の名は、公民館中庭にある「重井教育整備事業に関する寄附者」の石碑に「一 金百万円也 宇治市 柏原学」と見える。

 資料は、1963年のシンポ工業(株)の会社案内「会社のあらまし」より抜粋。

 

10。小学校史 その1

 寺小屋や私塾によって行われていた庶民教育が明治維新後、公教育となり、やがて義務教育となる。

 明治の公教育の精神は明治元年3月14日の「五ヶ条の御誓文」に発し、制度としては明治5年8月3日太政官布告の「学事奨励に関する仰出書」、及び同日発布の文部省布達十三別冊「学制」による。なお、これはフランスの制度を規範としたものであった。

 広島県では、明治6年4月12日白浜権参事官通達で小学校設立願を提出させた。一六小区の因島では、「振徳舎」(重井村善興寺、教師沼田良蔵)と「研機舎」(後に「尚純舎」に変更)(田熊村浄土寺、教師村上万之助)の二か所が許可された。なお、田熊村では慶応元年に私塾の「久敬舎」が大田熊に開設されており、前身となった。

 以上が因島における公教育の始まりである。(参考:「因島市史」p.891)

 

11。トランペット鼓隊50周年記念誌制作委員会   事務局 柏原裕

 9月28日の準備委員会を経て、10月10日に第1回重井小学校トランペット鼓隊50周年記念誌制作委員会が開かれた。委員長:柏原幸子元重井小校長、副委員長:岡野良子元因北小校長、梶田勇司重井小教頭、柏原正和重井小PTA会長、顧問:深見直彦重井小校長。事務局 柏原裕(事務局長)、村上明嗣、上馬場伸子、柏原広雄、柏原林造 とし、年代別制作委員は順次追加することが決まった。写真、思い出、出演行事等の資料を収集し、年度内の発行を目指す。ご協力をお願いします。 

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会 

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第5回 2016.9.20.(共催:因島白滝公園保勝会)

 ふるさとの歴史を学ぶ会

第5回

p.71-72] [p.89-90] [p.72-78] [p.79-81] [p.82] [p.83] [p.84-85] [p.86-87] [p.88] 

 

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壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録

 

 

 

 

1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

 6月の大雨で山門下の石垣が崩壊したため、一丁から表参道が通行止めとなっており、裏参道のみが通行可能である。 もともと裏参道は整備が十分になされていない上に急傾斜の所もあり、さらにこの度の大雨で表土が流れた所もあったので補修を必要とした。管理人、ヴォランティアの町民、区長会、保勝会などで応急的な補修を行っている。

 

2。白滝山について  その5 [p.73-81]

 今回は、柏原舒延著「霊峰白滝山の沿革」について、

(18)一観居士因縁記(天の巻)   「反省ノ泉」昭和44年8月1日発行 第202号(18)〜(23)

(19)一観居士因縁記解説      「反省ノ泉」昭和44年9月1日発行 第203号

(20)一観居士因縁記解説      「反省ノ泉」昭和44年10月1日発行 第204号

(21)一観居士因縁記解説      「反省ノ泉」昭和44年11月1日発行 第205号

(22)一観の功過自知録       「反省ノ泉」昭和44年12月1日発行 第206号 

(23)二二号迄のまとめ       「反省ノ泉」昭和45年1月1日発行 第207号 

の6回分を読む。[p.73-78]

 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の重井村壹番組(続き)、貳番組(一部)を見る。地区割の現在との関係は次のようになる。一番組:イ区、ロ区の丸山班。二番組:ロ区の山田・有浜班、ハ区、ニ区の須越・須越奥班。[p.79-81] 

[p.81]原本p.84の六部了心は大師堂にある六十六部廻国供養塔の願主である。廻国供養塔は因島に9基あり、重井には3基ある。その1つである。

 

3。村上水軍について その5  [p.82

    松浦儀作「因島村上と青影城址因島市青影観光会、昭和三十三年、p.26の「因島に残る村上氏」は、古いものなので現状とは合わなくなっている面もあると思われるが、参考までに載せた。また、因島村上氏についてもその後の研究で表記の異なるものがあるので注意が必要である。青影城は第一家老救井氏の居城と考えられている。大浜の村上丹後守吉房は四代吉直の弟である。補足すれば、中庄平木祖主殿は助道のこと。大田熊祖直吉は六代吉充の弟敬吉の子。 

 

4。中庄茶臼山城跡周辺史跡巡り      地図 住原俊治 作成 [p.83]

 天授3年(1377)霜月15日の釣島箱崎浦の戦いは島前城の今岡氏と中庄茶臼山城の大鳥氏が、村上師清と戦って負けた。茶臼山城の周辺の史跡を探訪する。

 

茶臼山城跡 石名松浦氏先祖碑、小林氏先祖碑

 茶臼山城は大鳥義直の居城で、城主は大鳥義康である。中世には城主は麓の館に住んだ。すなわち土居形式(砦を兼ねた住居)から砦が独立したものと考えてよいのだろう。義康の弟が宗義で、その夫人が妙泰夫人である。標高126mの頂上付近が本丸、現在の登り口の鉄塔のある辺りが二ノ丸、本丸方向へ行かず右手の一段下がったところを南東へ進むと三ノ丸。かつて三ノ丸への登り道があり、そこに茶臼神社と松浦氏先祖碑があったものと思われる。松浦氏先祖碑は現在地へ移された。大鳥氏の子孫が中庄松浦氏である。石名松浦氏と呼ばれ、後に分家して蒲田松浦氏と徳永松浦氏に分かれた。石名松浦氏の先祖碑は中須賀池の消防署西にある。蒲田松浦氏徳永松浦氏の先祖碑はそれぞれ荒神社の少し東、島四国21番大龍寺境内にあり、別個に先祖祭りが行われているとのことである。石名松浦氏先祖碑の隣に小林氏先祖碑がある。

徳居屋敷(田頭家住宅)

 茶臼山の東麓に江戸時代の武家屋敷の面影を留めていると言われる徳居屋敷がある。中庄田頭氏の祖である田頭氏が弓削から移って、この地を買ったとき、有名な家なので屋号として残すことにしたというエピソードが伝わっている。田頭氏の先祖は承元年間(1207頃)に弓削に来て多賀城を築いた宇多源次兵衞明利を祖とする。二代目で田頭と改正。三代から6代にわたって河野家に従った武門であったが、八代が慶長3年(1598)に没した後、九代が武家を廃しその子茂兵衞満辰が両親と共に中庄へ来た。(参考:「弓削町誌」p.119) 

菅原神社 祭神:菅原神。貞亨2年(1685)に柏原吉助元祖権右ヱ門と田頭幸吉中祖茂平が太宰府より勧請。

不二庵(権現不動堂) 徳屋田頭家が創建。

●権現下池 広さ793㎡、満水時水深5.4m。

隠島神社、権現廃寺

 因島に関する記録で文献上最も古いのは、「三代実録」の元慶2年戊戌(878)12月の条の15日にある「○十五日丙子、授備後國無位隠嶋神従五位下

(十五日丙子、備後の國無位隠嶋神に従五位下を授く)」佐伯有義編、「六国史. 巻10 (三代実録巻下)」、朝日新聞社昭和16年、p.156の記述である。隠嶋が因島のことであるとすれば、であるが。「隠嶋神」と伝える神社が、多数ある。この隠島神社、重井大疫神社(祇園さん)、大浜齋島神社、外浦住吉神社などである。

中古社殿大破ニオヨビ后マタ大雨ニ社地を損ジ大鳥居石燈手洗鉢流沙ニ埋リ民力ニ不堪欠シテ遂ニソノ敗スルニ及ンデ該地モ民友ニ属ス然レド祭神ハソノ地ニ小社ヲ再建シ其ママ鎮座アリ元禄年間ニ大雨アリテ社地谷筋ニ押流シソノ際大鳥居笠石並ニ高サ四尺余広サ弐間ノ大石先洗鉢アラワル御調郡庶務役小林又兵衞正完ノ指揮ニ拠入所致シ埋隠シ畑地ニ修繕ス其ノ土地現今村上仏次郎所有ニシテ字権現二千八百九十番地ナリ其手洗鉢ニ隠島宮トアリシ旨土人古老ノ口碑ニ存ス」(森本八郎「中庄村史」p.49)     [p.89]へ続く。

 またここは、権現廃寺跡である。

現在その一角に隠島神社の小祠が建っており当時の神宮寺と思われる。第二次世界大戦の中頃、農耕中に瓦、土器、古銭など出土したが散逸し、現在瓦数点を残すのみである。これらは平安時代後期のものと結論づけられ市の重要文化財に指定されている。降って、平成三年八月再確認のため、試し掘を実施したところ、巾五十センチ、長さ五メートルの基壇の一部を発見し、また、瓦、土器などの破片七十点余りが出土し、寺跡があったことを裏付けることが出来た。田中稔因島史考」p.103 

赤雲神社 祭神:須佐之男神。明暦元年(1655)1月27日夜、権防山に赤雲の中に光が出たので、所有者の松浦(藤原)義光が翌日その近くの松の古木に注連縄を引き社殿を創設した。6月28日義光が出雲須佐之男神社より勧請。

 

5。中庄の「村四国八十八か所」   住原俊治     [p.84-85]

 

6。道元禅師へのアプローチ その5「正法眼蔵」〈即心是仏〉より

「即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。」「いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。」

〈即心是仏〉(岩波文庫正法眼蔵(一)」p.148)

四国遍路が発心の道場、・・修行・菩提・涅槃の道場と四つの道に分かれている。菩提薩埵の略が菩薩で悟りを求める人という意味である。

 

7。弘法大師空海へのアプローチ その5 「三教指帰」について 

 弘法大師空海が若い頃書いた「三教指帰」(さんごうしいき)はその序文に「阿波の国の大滝岳によじのぼり、土佐の国の室戸崎で一心不乱に修行した」(p.255)ことが書かれてあり、有名であるが、儒教道教、仏教の比較論をしたものである。結論は「かの周公・孔子儒教老子荘子道教などは、なんと一面的で浅薄であることか」(p.291)と登場人物に言わせ、「出家することこそ最上の道」(p.292)としている。引用は中央公論社「日本名著3最澄空海」の福永光司口語訳による。

 

8。柏原米太郎氏 [p.86-87]

 柏原米太郎氏は重井では「台湾米」と呼ばれた台湾の実業家で、須越と上坂の間にある荒神社に柏原神社を建て、「柏原土廟記」を出版した。柏原米太郎氏に関する資料を集めてみた。

 柏原充正、「重井の電話史談」、昭和58年、p.92

   橋本白水「台湾統治と其功労者」南国出版協会(台北)、昭和5年、p.130

 田丸實太郎、「因島案内」、因島案内社、大正八年、p.73

 また、台湾の公文書の記録として以下のものがあった。

臺灣總督府及所屬官署職員錄》274

柏原米太郎 本籍:廣島 昭和三年 臺北州基隆市協議會員 市協議會員

基隆港移出米取扱ニ就テ 1927/ 柏原米太郎著 国立台湾大学蔵書目録

 

臺灣總督府專賣局檔案(大正十一年會計永久保存第九冊)

米酒一斗甕運送契約(新竹分工場、埔里工場、恆春工場、宜蘭工場、花蓮港工場、旗山工場、臺東工場) 柏原米太郎 

 

臺灣總督府府報資料

木杯及褒狀下賜(大阪商船株式會社基隆支店等捐獻金錢或物品或土地,故賜給木杯或褒狀)大正2年06月07日(19130607)

合資會社商船荷捌組基隆支店 、 小川直馬 、 柏原米太郎 、 田中庄吉 、 高田庄次郎 

 

木杯及褒狀下賜(大正6年6月23日木杯及褒狀頒賜名單,共193名)大正6年06月24日(19170624)基隆輕鐵株式會社 、 柏原米太郎 、 小松利三郎 

 

木杯及褒狀下賜又ハ贈與(內藤久寬等人捐獻罹災救恤金,故賜給木杯或褒狀)大正2年05月09日(19130509)柏原米太郎

 

臺灣總督府

柏原米太郎船舶國籍證書書換交付ノ件(基隆廳)1908-01-01(明治41年)

1907-1920 年各廳幼稚園入園資格及經費來源概況表  單位:日圓 

基隆幼稚園  3 歲到上小 學之前 設立者負擔。不足時由小松任三郎、小松利三郎、柏原米太郎、水野新十郎等人負擔。

 なお、吉田寅太郎著「續財界人の橫顏」經濟春秋社(臺北市)1933の頁241-244に「ヘョで鳴した、柏原米太郎君」というのがあるが未見。

9。重井小学校鼓笛隊の創設について  柏原 裕  [p.88]

 

 

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尾道市因島 史跡散歩6〜10

いんのしまみち しげいみち おおはまみち なかのしょうみち とのうらみち かがみうらみち むくのうらみち みつのしょうみち はぶみち たくまみち おのみち 日本のみち 史跡散歩

1〜5のリンクと関連写真 6〜10のリンクと関連写真 11〜15のリンクと関連写真 16〜20のリンクと関連写真

 

せとうちタイムズの連載「ふるさとの史跡をたずねて」web版へのリンクと関連写真などです。web版は紙版より少し遅れます。

6 妙泰神社(因島土生町明体) 2016.9.10.

7 三庄の妙泰神社(因島三庄町三区) 2016.9.17.

8 青影落葉の神(因島土生町郷区) 2016.9.24.

9 三子松(因島土生町三子松) 2016.10.1.

 10 狸藪(因島三庄町一区) 2016.10.8.

 

 妙泰神社(因島土生町明体) |2016.9.10.0845.boo.jp

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因島南中学校の交差点で田熊側へ登る。ここの交差点から三庄側の次の交差点までの間が坂道になっていて昔の海と陸の境目だったことが伺われる。すなわち、このあたりまでが海だったと思えばよい。「土生小学校閉校記念誌」のp.37にこの頃の地図がある。 

 リンク

妙泰神社 字別略図

 

7 三庄の妙泰神社 (因島三庄町三区)2016.9.17.

 

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リンク

三庄町・妙泰神社  金刀比羅宮分祀

 

8 青影落葉の神(因島土生町郷区)2016.9.24. 

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名前がいいですね。「青影落葉の神」と聞いただけで、これはぜひ書いておこうと思いました。確かなことはわからないことだらけですが。今岡通任は戦記の著作もある教養人ですし、それに青影山の田熊側に住んでいたということですから、この人の墓を、敗軍の大将ですから、人目をはばかって呼ぶには、いかにもふさわしい。

でも、通任は因島で死んだのだろうか。

おそらく、字(あざ)は広畑でしょうが、確証が得られなかったので郷としておきました。

中郷医院のあったところですと書けば、あああそこかと思い出す人もいるかと思います。

リンク

青影落葉乃神

 

 

9 三子松(因島土生町三子松) 2016.10.1.

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「みこまつ」と読みます。

ここには、史跡らしきものはありません。あるいは、私が知らないだけかも知れません。巨大水槽がもう樹木に埋もれてしまったように、この丘もやがて山林に戻るのかもしれません。

リンク

三子松

 

 10 狸藪(因島三庄町一区) 2016.10.8.

 

 

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1〜5のリンクと関連写真 6〜10のリンクと関連写真 11〜15のリンクと関連写真

尾道市 因島白滝山 石仏の名前

白滝山リンク集 石仏の名前


悟りを開いて真理に達した者
 
 

菩薩 
 悟りを求めて修行する人。人々とともに歩むというのが庶民信仰。
 観音菩薩(母性的)➡️弥勒菩薩(未来救済)、普賢菩薩(女人成仏)➡️文殊菩薩(知恵)➡️地蔵菩薩(道端で子供救済、庶民の身近)➡️六地蔵   勢至菩薩➡️ 阿弥陀三尊像3体(観音菩薩像
 
観音菩薩(観自在菩薩)➡️阿弥陀三尊像3体(観音菩薩像
 33変化。・・・33観音。
 西国33では
  千手観音 15、十一面観音 7、聖観音 4、如意輪観音馬頭観音 1、准胝観音 1、不空羂索観音
 
観音経:法華経「観世音菩薩普門品第二十五」
 世尊妙相具 我今重問彼 仏子何因縁 名為観世音
 
羅漢 阿羅漢 
 尊敬や布施を受けるに値するもの。修行者の到達しうる最高位。
16羅漢 ➡️十六羅漢
  長くこの世に生きて人々を仏の教えで救済する役割を持った16人の羅漢。名前がある。
  仏滅後8000年ナンディミトラ阿羅漢が説いた。
  名前が付いている。
五百羅漢
 
仏陀に付き添った500人の弟子。仏滅後仏典編纂にあつまった500人の弟子。
 
 
 名前が付いている。
 1。舎利弗(シャリホツ) 舎利子とも。
 2。摩訶目犍連(マカモッケンレン) 目連とも。餓鬼道に落ちた母を救うために行った供養が施餓鬼で、盂蘭盆会の起源。
 
 

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料  第4回 2016.8.16.(共催:因島白滝公園保勝会)

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第4回

p.51-52] [p.69-70]  [p.53-58] [p.59-61] [p.62] [p.63] [p.64-65] [p.66]  [p.67-68]  

 

ふるさとの歴史を学ぶ会 

2016年Vol.1 第1回資料 第2回資料 第3回資料 第4回資料 第5回資料 第6回資料 第7回資料 第8回資料 総目次

2017年Vol.2 第9回資料 第10回資料  第11回資料 第12回資料 第13回資料   第14回資料 第15回資料 第16回資料  第17回資料 第18回資料   第19回 資料  第20回資料 総目次

2018年Vol.3 第21回資料  第22回資料 第23回資料 第24回資料 第25回資料 第26回資料 第27回資料 第28回資料 第29回資料 第30回資料 第31回資料 第32回資料 総目次

 
 
 
 
 
 

壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録)

 

1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

 6月29日の豪雨で転落した3体の十大弟子の修復を胡光夫さんの指導のもとに7月24日と31日に行った。両日とも区長会から2名が参加した。24日には13名で西側の十大弟子十六羅漢を下ろして土台を修復し、31日に11名で復元完了した。また、裏参道の補修を継続的に行なっており、8月7日には石板、小石、ブロック、砂利、セメント、砂などの資材を大量に運んだ。

 

2。白滝山について  その4 [p.53-61]

 今回は、柏原舒延著「霊峰白滝山の沿革」については、

(12)一観の「素意」     「反省ノ泉」昭和44年2月1日発行 第196号(12)〜(17)

(13)一観伝道哀史      「反省ノ泉」昭和44年3月1日発行 第197号

(14)白衣観音の木像     「反省ノ泉」昭和44年4月1日発行 第198号

(15)一観の伝道精神         「反省ノ泉」昭和44年5月1日発行 第199号

(16)歌にみえる一観の教    「反省ノ泉」昭和44年6月1日発行  第200号

(17)歌にみえる一観の教(続)   「反省ノ泉」昭和44年7月1日発行  第201号

の6回分を読む。[p.53-58]

 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の生口嶋、三嶋、岩城、田嶋村中、弓削嶋、大嶋、京都、備中、大坂、播州、丹後、廣嶋、廿日市重井村壹番組(一部)、を見る。重井村は一番組から五番組まであった。現在との関係は次のようになる。一番組:イ区、ロ区の丸山班。二番組:ロ区の山田・有浜班、ハ区、ニ区の須越・須越奥班。三番組:ニ区の上坂・薮の下、ホ区の一・二班、チ区。四番組:ヘ区。五番組:ト区、ホの三・四班。[p.59-61] 

 

3。白滝山・青木・馬神~重井周遊マップ   [p.62]

5月28日(土)に商工会議所主催のウォーキング大会があり、重井町内を歩いた。そのコースを元に重井周遊マップを作った。9時にスタートして、15時に帰った。昼食はフラワーセンターで食べた。コースは以下の通り。フラワーセンター駐車場、伝六ロード、大浜往還(古道)、白滝山、表参道、西洋館、フラワーセンター、青木道、青木城跡、明治橋、馬神新開、馬神城跡、北の浜、厳島神社、 伊手樋、天秀庵城跡、山の神社、須越樋口道、文化橋、フラワーセンター駐車場。

大出神社から上は私有地(畑)で道ではない。ここが通れるようになったら、地図に示したルートで周遊できる。その際青木道沿いの史跡は別ルートになる。青木道の史跡:裏門(長右衛門旧居)、青木金比羅神社、白滝山丁石(12丁)、青木道路改修碑、長右衛門顕彰碑、共同井戸、青木沖新開住吉神社、村四国、島四国など。     

 

4。村上水軍について その4  

釣島箱崎浦の戦いに勝った村上師清の子、吉豊を初代として6代吉充まで長崎城を本城として村上氏当主は180年間因島にいた。吉充は向島のほぼ全域を支配下におき、立花の余崎城に13年間本城を移した。その後、小早川隆景の三原移城に伴い、吉充は重井青木に築城して移った。永禄12年(1569)のことである。この時重井を支配していた杉原氏は生口島島へ移った。これにより因島全域がはじめて因島村上氏支配下に置かれたという。吉充は秀吉の海賊禁止令(天正16年、1588)に伴い隠居して鞆城に移った。さらに関ヶ原の敗戦後、長門の矢田間(豊浦町矢玉)に移るが、備後、弓削を経て大洲亀田に3年、のち野間佐方村(菊間町)へ移り、そこで生涯を閉じた。吉充隠居後は弟亮康の子吉亮(慶長元年没、廟所金蓮寺)を7代、その子元充が8代として因島村上家を守った。青木城は3代32年間である。江戸時代は三田尻長州藩船手組として勤め、給地は屋代島三浦(大島町三浦)で、防府牟礼村極楽寺を菩提所とする。

従って因島村上氏因島時代は1377年から225年間であった。

江戸時代の因島は村上氏の子孫(長右衛門家など)や下臣たちの子孫(宮地家など)などを中心にして近世農村社会が作られていく。

 

5。釣島箱崎浦合戦史跡巡り      [p.63]

因島村上氏の時代は天授3年(1377)霜月15日の釣島箱崎浦の戦いに始まる。今回は土生の合戦史跡を中心に探訪する。島前城跡は現在因島図書館のあるところで今岡通任が支配した。屋敷跡は青陰山登山道の六松公園近くにあった。また、配下の大鳥氏は中庄茶臼山城城周辺に住んでいた。村上師清軍と今岡・大鳥軍の戦いであり、釣島箱崎浦の戦いの跡を示す史跡標が、湊大橋にあるGSの北側の公園にある。西に見える島が釣島。現在鶴島と呼ばれる。稲荷神社の赤い鳥居が見える。鶴島の北が竹島で亀島とも呼ばれる。鶴島の西が平内島である。島前には因島開発名主上原(かんのはら)祐信の土居館があった。上原氏の持仏堂が長源寺で後に因島村上氏菩提寺となる。しかし天正5年(1577)に焼失し、江戸時代に中庄に移転し長福寺となる。守護神が耳明(みみご・耳護)社である。現在は大山神社にある。

耳明神社の隣に藤原泰衡の碑があり、巻幡氏の祖とされる。その碑と巻幡氏の先祖碑は対潮院にある。大山神社にはまた鍛冶神社がある。鍛冶神社は串畑から移った。

青影落葉之神は今岡通任の墓と伝える。妙泰神社は中庄茶臼山城主大鳥義康の弟宗義の夫人が妙泰夫人で城主義康の影武者として戦ったが、土生越えで討たれた。そこの地に後に妙泰神社が建てられた。女性の願いごとは何でもかなえられるという人気のある神社で島内にも何箇所か分祀があると言われるが、確認できたのは三庄の一社のみ。土生越えのこの峠を妙泰越えという。字「明体」と地図に見える。城主の子供たちは三子松(みこまつ)で討たれた。

串畑は翌年「天授四年」銘の刀を三原の刀匠を招いて造らせたところで、加冶屋谷という。田熊側の字は「鍛冶後」で「鍛冶ヶ後」とも書くから「鍛冶ヶ背戸」と呼ばれているところだろう。ここにあった鍛冶神社が大山神社に今はある。

対潮院は稲井家下屋敷対潮閣であった。(、を。に改めた)村上水軍は慶長五年関ヶ原別動隊で伊予松前城攻めを行った。この時稲井家当主、伯耆守治憲は多くの家臣達の外父家治・弟宮地忠明・長男村上重治の三人を同時に失った。このため対潮閣をこれら戦歿者を弔ふための仏院となしたものであろう。 この仏院とした稲井邸対潮閣を明峯恵三和尚が中興開山となって慶長十三年対潮院として再興した。

(稲井幸晴「稲井家」、昭和59年、p.324)

なお、重井の藤井氏は橋本屋、次いで茂平屋を祖とするが、茂平屋の先祖は土生村大西屋嘉平太と伝える。土生の墓所巡りの参考にしていただきたい。

 

6。土生町 対潮院境内 西国三十三観音霊場    住原俊治     [p.64-65]

 

7。道元禅師へのアプローチ その4「正法眼蔵」〈仏性〉より

尽界はすべて客塵(かくぢん)なし、直下(ちょくか)さらに第二人あらず、・・・悉有(しつう)それ透体脱落(とうたいとつらく)なり。〈仏性〉(岩波文庫正法眼蔵(一)」p.74) 

 道元禅師の主著「正法眼蔵」の第三仏性は長い章である。冒頭の、釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性。如来常住、無有変易」への道元の立場を説く。世界そのもが主体であり、対象物は二つとない。主体と客体がある、というのではない。主体だけであるというのである。それゆえ、存在そのものが仏性であり、悉有(ことごとく有る)ことを会得しており、それは全身解脱である。

 

8。弘法大師空海へのアプローチ その4 入唐のこと2 [p.66]

 前回、遣唐使船の福州漂着における嘆願書を空海の語学の天才ぶりを示すものとして紹介したが、これを松本清張さんなら、もっと冷ややかに見る。吉川弘文館の「国史大辞典5 付録」の「遣唐使余話」の一部を載せる。

 

9。柏原達象氏(1884.6.23-1955.9.26)とダバオの柏原旅館 [p.67-68]

  ダバオの柏原達象氏については、かつて重井小学校が木造校舎の頃、階段の壁に大きなワニの剥製が掛けられており、その箱の下に柏原達象氏寄贈と書かれてあったことを覚えている方は多いと思う。柏原達象氏は戦前、フィリピン、ミンダナオ島ダバオ市で柏原ホテルという、ダバオで最初にできたホテルを経営されていた。ダバオ国とも呼ばれ満州国と並ぶ戦前の日本の植民地で、主要産業は麻であった。ダバオ関係の書籍から柏原達象氏についての記述を紹介する。

 古川義三「ダバオ開拓記」より。

11.柏原達象氏 1884年明治17年)6月23日広島県御調郡重井村に生まる。海外発展を志し1903年明治36年)6月、西豪州プルームに渡り真珠貝採取に従事したが、前途の見込みが少ないので僅か半年にしてシンガポールに引き返し、1905年4月ボルネオを経てフィリピン群島ホロに上陸し、更にダバオに来て太田氏に会ったが、またコタバトに引き返し米人のボーイとなった。後バランで米軍のコール マスターを勤め、月給80比の中から貯えた多少の資金で、漸くやまと屋という雑貨店を独立経営した。

以下[p.67-68]へ続く。

 古川義三「ダバオ開拓記」(古川拓殖株式会社、昭和31年)p.199-200

[p.68]の下のKASHIWABARA HOTELの写真は、改造社編「日本地理大系 海外発展地篇 下巻」改造社、昭和六年、p.33に掲載されているものである。

 

 城田吉六「ダバオ移民の栄光と挫折」より。 

 妻と一才の長女を伴って、フィリピン群島へ旅立ったのは、一九三七年(昭和十二年)七月十九日だった。以上p.252、(中略)、以下p.256

 十日目の七月三十日、北野丸はダバオ港に着いた。船上での検疫がすんで上陸すると、ダバオ税関で簡単な入国試験があった。

 明治時代の日本の修身教科書をだし読みのテストがあった。なんのために入国するのか教育視察はいつまでするのか、いつ帰国するのか等聞かれた。

 通訳してくれた柏原氏が、ばかばかしい質問ですが真面目に答えて下さい。でないと入国を拒否される場合があるかも知れないと言われて真面目くさって答えた。日本移民をよほど知能の低い人間だと思ってか古い教科書を読ませたのであろうと思った。

 柏原氏経営の柏原ホテルに泊っていると、ミンタル日本人小学校の前田照之介先生が迎えに来てくれた。私が独身で渡航して来るものとダバオ日本人会は思っていたらしく、妻子連れであるのにびっくりした模様であった。

 前田先生は急いでキャンプの世話をするからホテルで一両日待てということであった。柏原ホテルの二日は言葉は通じないし、退屈で食事はナイフとフォーク、寝風呂に腰掛け便所馴れない様式で不便この上ないものであった。

 然しはじめて食べるマンゴの甘さはなんともいえない味であった。

田吉六「ダバオ移民の栄光と挫折」、長崎出版文化協会、昭和55年、p.252、256

 また、柏原達象氏のことは、『広島県移住史 通史編』p.471の辺りにも記載されている。

 

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ふるさとの歴史を学ぶ会 

Vol.1 

第1回資料 第2回資料 第3回資料 第4回資料 第5回資料 第6回資料 第7回資料 第8回資料 

Vol.2 

第9回資料 第10回資料  第11回資料 第12回資料 第13回資料   第14回資料 第15回資料 第16回資料  第17回資料 第18回資料

 

因島中庄町 松浦家家譜

茶臼神社 21番大龍寺(釜田松浦家先祖碑

松浦家家譜

 

(諸本からの抜粋、未校正)(別人の経歴が混在しているのでは? あるいは年代が間違っているのか?)

 

陣貝(石名)松浦家

初代

 城戸(きど)太郎兵衛尉  従五位下 藤原盛義

 建武元年(1334年)5月1日没。  天真院寶山義永大居士。


 元弘三年(1333年)5月、 土佐国但馬守の侍従藤原忠義の家臣であった盛義は、 
忠義に従って尾道浄土寺へ赴き、さらに浄土寺の領地になった 因島へ渡った。 
盛義は、忠義の下で伊予近海において戦い、 その功績により、 従五位下に叙せられた。

 

2代

 城戸賜大鳥二郎兵衛尉 藤原光景 。
 文和3年(1354年)3月2日没。瑞龍院徳岩永澤大居士。

 

3代

 大鳥式部民之尉 権大学  修理権太夫 藤原盛長 。
 文和2年(1353年)十一月十六日没。 長生院大真義孝大居士。

 

4代
 大鳥豊後守修理大夫 藤原光貞 。画所預職。従四位下

 

5代?

 大鳥伊予守   従五位 藤原義直 茶臼山城主 

 永亨6年(1434年)8月1日没。 藤原院臼山自然大居士 。

 一説に西浦松屋過去帳には「永亨六甲寅年八月朔日 小田薬師に葬る云々」(西浦松屋過去帳

6代

 大鳥左京尉 藤原直盛

 文明元年(1469年)9月30日没。瑞仙院南山徳崇居士。

 

7代

 大鳥勝祐尉義康 藤原義康 (茶臼山城主 大鳥義康 )

 明応九年(1500年)6月9日没 。文照院本光善性居士。別人か?

 釣島箱崎浦の戦いに敗れる。茶臼山城落城。

 茶臼山城主 大鳥義康の弟大鳥宗義の妻 妙泰夫人土生越えで敗死。妙泰神社。

 妙泰夫人の墓(供養塔)は田熊浄土寺。鐘楼の近く。廻国供養塔、つんぐり地蔵などの近く。元禄9年  妙泰菩提也  三月二日。

 大鳥九郎左衛門宗義は田熊の龍ガ迫で敗死。

 義康の二男盛久と女児一人が土生の三子松で敗死。

 今岡通任の墓:郷、広畑、通称楠木。「青影落葉神」。

 3男 大鳥佐武郎 藤原盛久 

  田熊金山の海浜で敗死。

8代

 大鳥太郎兵衛尉 藤原康盛 大鳥康盛 

 亨禄元年(1528年)3月14日没。 寿光院清山浄機居士。

 

9代

 大鳥右衛門祐 藤原光康 

 永禄九年(1566年)12月10日没。光厳院徹性日通居士。 
  父は、松浦氏、忠頼。 
  母は、5代、大鳥伊予守藤原義直の曽孫娘。 
  光康は7代目大鳥勝祐藤原義康の嗣子となる。

 

10代 松浦太郎左衛門尉 盛光

  天正19年(1591年)5月23日没。自得院天髄道仙居士。

  松浦と名乗ってからの一代目 
  陣貝(石名)松浦家より、徳永松浦家、釜田松浦家が分家。

  長男、松浦盛光(陣貝)、 次男、松浦藤二郎(徳永)、 三男、松浦平之進(釜田)ということになる。

 

11代

  松浦民部少輔 藤原盛義 

      慶長19年(1614年)3月12日没。天祐院功山道忠居士。
 永禄年間(1,558年ー1569年)に茶臼山北部山林を東氏正時に譲った。 
 茶臼山の東、南、西の三方の耕地及び 山林はそのまま所有した。 

12代

 松浦治良兵衛尉 藤原直義 
    寛政十八年(1641年)7月7日没 。鶴松院智嶽安徳居士。

13代

 松浦治良太夫 義光 

 寛文8年(1,668年)5月27日没。 松寿院太窓芳林居士。
 元和3年(1617年)庄屋。 
 寛永2年(1625年)8月1日茶臼山城跡に社殿 再建。

 寛永3年(1626年)因島が9ヶ村に分割された。 松浦義光は、庄屋を辞退し、帰農。この頃、義光、郷内の小林又左衛門、 大上十良太夫、長福寺(因島中庄)を 建立。

 明暦元年(1655年)権防山に社殿を建立し、同年6月28日 出雲国須佐之男神社から、須佐之男命の御分霊を迎え、これを 祭神として勧請して、「赤雲神社」と名ずけた。「陣具の荒神さん」。

 

 松浦三郎兵衛 盛敏 
  十二代直義の子。十三代義光の弟 
  正保元年(1644年)藩主浅野候の命により、 御調郡の郡務を勤め、御調郡徳永村(現在の御調郡御調町河内地区大字徳永) へ移る。「清十良の祖」といわれている。

 松浦伝左衛門 盛質 
  十二代直義の子。十三代義光の弟。 
  承応2年(1653年)耕地及び山林若干町歩を譲り受けて、 「梶畑」へ分家。「伝三郎の祖」といわれている。

 

14代

 松浦治右衛門 光照 

 松浦興市兵衛 貞光 (西浦松屋の元祖)

 延宝3年(1,675年)12月19日没。 本雪了源禅定門 。
 13代義光の二男。14代光照の弟。 
    慶長年間(1,596-1,614年)頃に、耕地、宅地及び 山林を数十有町歩譲り受けて、 茶臼山の麓「陣具」へ分家した。 貞光は、興市兵衛貞運に後を譲って相続させ、 次郎左衛門貞嗣と長兵衛をそれぞれ分家させた。 

15代

 松浦治兵衛 義照 
 元禄16年(1703年)6月9日没。 光厳良圓居士。

 14代光照の長男 
 嗣子に恵まれなかったので、分家光平の元祖、 徳左衛門義則の二男、想右衛門忠敬を嗣子(養子)として、 忠敬に後を継がせた。 また、義照は、村上則敬の子(先代光照の孫、当代義照の妹の子) 吉良兵衛と宮地七左衛門の子の二人を 養子として、それぞれ分家させた。 

 松浦徳左衛門 義則  「光平松浦」の祖。
 14代光照の二男。15代義照の弟。 
    寛文年間(1,661年―1672年)頃、耕地十有余町歩、 山林数ヶ所を譲り受けて、「光平」へ分家した。 義則の 長男長左衛門が2代目を継いだが、嗣子が なかったので、弟(義則の4男)角十郎が、 その後を譲り受け、三代目を相続した。

   光平松浦の元祖から5代目の萬四郎甚松の世代に、 甚松の二男甚九郎が

  「室屋」へ分家し、「森屋松浦」の元祖となる。

   義則の二男想右衛門忠敬は、本家石名の 16代を継ぎ、三男金右衛門が分家して、 
「金石松浦」の祖となる。 

 

16代  

 想右衛門 忠敬 

 

17代

 

 

 

徳永松浦家

初代

  松浦藤二郎 光敬  

  文禄4年(1,595年)4月5日。松翠院盛敬自○居士。
  亨禄年間(1,528年ー1531年) 分家し、住居を日和谷(徳永)へ移す。 
  盛義?(盛光?)の二男盛久を嗣子とする

2代

  正九郎 盛久  山守治部正九郎尉

  寛永9年(1633年)8月2日没。徳寿院日和自照居士。

  石名松浦十一代民部少輔 盛義の二男 
  松浦藤二郎光敬の嗣子となり、亨禄年間(1,528-1531年)頃に 、養父光敬と共に、住居を日和谷(徳永)へ移す。 
  浅野藩の山守役を勤める。 
  日和谷に耕地及び山林三十有余町歩を所有する。

 

以下の代数は1つ間違っている。3代とすべきだろう。
2代平四郎 盛兼 
3代清兵衛門 盛道 
4代善十郎 興道 
5代徳八郎 時道 
6代清吉郎 吉時 
7代徳八 吉輝 
8代清吉 正直 

 

 鶴本屋(たるまん)弥八

釜田松浦家

初代

 松浦平之進 盛行  弥三兵衛 
 天文年間(1,532年ー1554年) 分家し、住所を宮脇(釜田)に移す。

 
2代弥三兵衛(市三郎) 
3代弥三兵衛(善造)

 (徳永丸三家初代)釜田善兵衛 
 (山口勝一家初代)釜田甚六 
 (陣貝ソーメン屋家初代)天神源七 
4代甚七 
5代弥平 
6代甚七 
7代保平 

8代佐平 

9代要次郎 
10代要次郎(富三郎) 
11代源松 
12代要次郎(惣次郎) 
13代査炳 
14代繁夫 
15代基之(神奈川県在住)

 

 

 田中屋(万田醗酵)

田中屋初代  清助 
田中屋2代 清助 
田中屋3代 藤十郎 
田中屋4代 新五郎 
田中屋5代 林五郎 
田中屋6代 岩右衛門 
田中屋7代 友之助 
田中屋8代 林五郎 
田中屋9代 龍太郎 
田中屋10代 繁治 
田中屋11代 新吾郎 
田中屋12代 良紀(よしのり)