夕凪亭別館

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因島 村上水軍

村上水軍研究目次

 

因島村上氏の系図

田中稔因島史考」p.116を元にする。

 

先代 村上師清

 箱崎浦合戦の勝者

 

1代 村上吉豊

 師清の三男。

 

2代 村上吉資

 

 

3代 村上吉光

 

4代 村上吉直

弟村上吉房が大浜の土居城主、幸崎城主。

 

5代 村上尚吉

 

6代 村上吉充

 

7代 村上吉亮

 

8代 村上元充

 

となる。

 

1代 村上吉豊について

 師清の三男。中島「一万年史」p.148では次男。

因島村上祖)

(顕長)

又三郎吉豊

土生長崎城主

因島中努大夫某入道善監家云

左衛門大夫、備中入道

中島では、「継因島中努大夫某入道 善監家云」

 

2代 村上吉資について

(吉安)

蔵人助、備中守

 

水軍と海賊

村上水軍と呼ぶのが正しいのか、村上海賊と呼ぶのが正しいのか?

実態はあまりよくわからない。

海賊といえば、無条件に船を襲い、海賊行為を行う船であり集団である。

水軍というのは戦国時代に戦国武将の一団に組み入れられ、主に海上で戦ったり物資輸送に携わった時期があったから、そう呼ばれるのであって、ずっと水軍であったのではない。

秀吉の海賊禁止令というのがあるから、それまでは海賊と呼ばれたのか。そうすると、水軍の時代とも重なるので、結局、どちらでもよいということになる。

 

三島村上氏

村上水軍といえば、能島村上家、来島村上家、因島村上家をあわせて言う。元は同じ村上氏から出て後に分かれたということである。

一説に、

因島村上氏系譜3代村上義顕(新居大島隅獄城主)が三子に能島、因島、来島を支配させた。

長男雅房に父祖伝来の所領能島、次男吉豊は義弘の娘婿として因島青影城、三男顕忠を河野の養子として来島城主とした。

 

というのがある。

松浦儀作「因島村上と青影城址」、因島市・青影観光会、1958、p.10

も、そうである。

ここで、「義弘の娘婿」というのが気にかかる。この点などから森本繁氏は分家をもう一世代前に遡ってたものとする。

森本繁「歴史紀行瀬戸内水軍」新人物往来社、1987、p.216

 

 一時期の特徴ではあるが、「広島県の歴史」には次のように書かれている。

地域大名の領国支配が展開するなかで、この因島村上氏は備後山名氏、そして大内氏、のち毛利氏に属す。来島村上氏は伊予河野氏の一族として活動する。ともに陸の大名の軍事力編成に組みこまれた水軍の性格が濃い。しかし、能島村上氏はきわめて自立性・独自性が強かった。 岸田裕之編「広島県の歴史」、山川出版社、1999

 

縄張りと関銭

海賊という呼称は、倭冦や初期の頃はともかく、無条件の海賊行為ではなかった。水先案内料を支払わない船舶に対して海賊行為が行われた。この部分が強調されて海賊と呼ばれるのであろう。

その水先案内というのは瀬戸内海のある地域ごとの通行の保証であった。ここに縄張りという概念が生じる。海の上に縄を張ることはできないから、ナワバリの語源が、村上水軍、村上海賊にあるのではなかろうが、今に伝わるナワバリの概念が広く適用されたのである。

 

このことを、松井輝昭氏は次のように記している。

能島村上氏を始めとする三島村上氏にとって、「海上の儀」は陸地の大名の権力が及ばない独自の世界であり、自分たちのナワバリに足を踏み入れた他国船は必ず関銭を支払わねばならなかったのである。関銭は航路の入口付近に設けられた海上の関で支払うことになっており、三島村上氏のあいだで関銭を徴収する場所が決められていた。関銭を支払った廻船にはその証拠として「免符」が渡された。

  松井輝昭「中世後期の瀬戸内海水運と海賊」(地方史研究協議会編「海と風土」、雄山閣、2002)、p.80

 

関銭の支払いを拒否した廻船に海賊行為が行われたのであろう。と思うのは、小学生の頃そのように語っていた先生がおられたからである。しかし、その行為を海賊と呼んだら、話がますますわからなくなる。海賊の時代もあった、と考えよう。

大杉征一氏は次のように記している。

海賊活躍時代も、徐々に下火となり、秀吉の天下統一で終わりをつげる。一つは、海上警備の強化であり、もう一つは村上氏はじめ海賊たちの大名化である。その勢力が拡大した室町時代末から、村上氏は因島、能島などに本拠を持つようになり、漂泊者としての性格が薄れてきた。

戦国時代になると、村上氏は安芸の毛利、小早川氏と結び、領主化への道を歩む。そして、秀吉の中国征伐が、その最後となった。村上氏は毛利の一族となり、一家臣として、明治まで続いていく。瀬戸内海の水軍は、戦国時代とともに姿を消した。

  大杉征一「水軍・海賊を育てた海」(写真記録刊行会編「写真記録日本の街道ー瀬戸内〈中国・四国の海路〉」、日本ブックエース、p.212)

 

だから、因島村上水軍は海賊の時代ではなく水軍の時代になっているので、因島村上水軍と呼ぶのがいいのだろう。村上海賊と呼ぶのは因島に定着する以前の話である。

 

 

因島村上氏系譜

 

元祖・村上義弘(三郎左衛門)―2師清―3義顕―4吉豊―5吉資―6吉充―7吉直―8尚吉―9吉充―10吉亮―11元充・・・・

 (9から下へ  隆吉 さらに下へ亮康)

 

松浦儀作「因島村上と青影城址」、因島市・青影観光会、1958、p.3による。

 

ここで、私が胡散臭いと思うのは、分家という考えを曖昧にしているからである。分家が3代であるにせよ、2代であるにせよ、そこから新しく初代、2代と続かなければならない。そして、本家がどこなのかを記せばよいのだ。これが三島村上水軍では曖昧だ。

従来のように3代義顕の子が分家して因島に来たのなら、吉豊が因島村上家の初代とならなければならない。家譜を長くしたいがためか、分家の系図を本家の系図に先行させて繋げようとするからわかりにくくなる。本家は本家。遠祖は遠祖。それでいいではないか。因島村上家という以上、分家して因島に来た吉豊を初代として数えるべきである。すなわち、「能島村上家3代の義顕の次男吉豊が分家して因島村上家を起こした」と書いてくれたほうがよっぽどよくわかる。

そうすれば、因島村上家3代吉充が青木城に住み、白滝山に観音堂を建てた、ということになり、はなしはよくわかる。

これが

因島村上家6代吉充が青木城に住み、となると因島に来て6代になるまで青木城は作られなかったのだろうか、ということになる。また、向島から来て、というのがつけ加わるとますますわからなくなる。ほんとうに因島にいたのだろうか、と小学生でも思うだろう。

 

さらに因島村上家というのはどういうことだろうか。

常識的に言えば、因島に来て初代になった村上家のことであろう。あるいは何代からかはともかく、今も、または相当長く因島に住んでいた村上氏がいたということである。

以上2点が曖昧だから因島村上水軍史が胡散臭くなる。

 

だから、6代だの7代だのというのは言わないほうがよいだろう。

そして、因島の水軍城跡に誰が住んでいたのか確認することだろう。

「戦国水軍と村上一族」(別冊歴史読本)、新人物往来社、2005

のp.147〜によると、以下のようになる。所在地は現代のものに変えた。

長崎城跡(因島土生町長崎)記載なし。

島前城跡(因島土生町)城主は村上四郎左衛門直吉と伝えている。

天神山城跡(因島田熊町)尾道市の鳴滝城主であった宮地氏が因島へ退去して最初に拠った居城と伝えている。

馬神山城跡(因島重井町)城主は因島村上氏の三番家老であった末長屋治馬景光と伝えている。

天秀庵城跡(因島重井町)因島村上氏の船奉行であった片山数馬連総の居城で片山城とも呼ばれる。

青木城跡(因島重井町)永禄十年(1567)に因島村上氏の第六代新蔵人吉充が向島立花の余崎城より移って、ここに本城をかまえたといわれとぃる。 

 

 

 

 

 

 

 

因島村上氏関係年譜

文明15年(1483)9代村上吉充譲状に譲与地として御判地のほか私領(守護からの給与地)と札浦(通行料の徴収地)があげられている。

慶長5年(1600)11代村上元充ら因島を去り長州萩に移る。

 

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