夕凪亭別館

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1991年1月

1991年(平成3年) 辛末
 
1991年1月1日火曜日雨のち曇り。
 大晦日の夜から集まり、宮参り。その後再びT君宅で飲む。3時頃辞し、今度は拙宅でA君と飲む。4時頃別れそれから寝る。朝9時頃起き今度は昼前に家族で宮参り。午後、姉の家族、弟の家族来たりて、昼食、夕食。昼と夜の間は寝ていた。夜皆帰りて後、年賀はがきをワープロで書き印刷する。 
 
1991年1月2日水曜日晴れ。
 今日は雨も止んで暖かい一日であった。午前中年賀状の返事を書く。午後も同じ。T氏来宅。3時頃より外出。白滝山へ登る。その後、フラワーラインを通って大浜のパーキングエリア、大浜公園と廻る。秀策神社へ行き帰る。帰って再び年賀状の返事を書く。夕食後3通を書き、やっと終える。
 大浜パーキングでの太陽電池時計の表示は午後4時頃で、12℃で24ワットだから、かなり暖かいといっていいと思う。
 
1991年1月3日木曜日晴れ。
 朝、T君より外出中に電話。10時過ぎにみつばちに行く。11時より、クラス会。4時頃終わり、2時間ほどスナックで飲み後、家に帰る。歓談す。話題尽きぬ。2時頃寝る。寝てすぐに地震。よく揺れたという印象がある。3時過ぎとラジオのニュースで伝えていた。
 
1991年1月4日金曜日晴れ。
 やや寒い。朝9時頃起きる。ずっと年賀状の返事を書く。ほぼ書き上げたと思った頃、また20通ほど来たので返事を書いて投函してきた。既に3時である。今日から紀要用の原稿を書く予定。
 新聞は野間宏氏の逝去を伝えたいた。たしかに偉大な人であった。扇屋正造氏編の「わたしの二十歳」という本の中で性的衝動と格闘されたさまを書いていた文章がこの人の文章では一番記憶に残っている。他に、新潮社の古い文学全集で少し読んだり筑摩書房の全集でもエッセーを読んだことがあるが、特別大きな影響をぼくは受けたわけではないが、何か偉大な人が亡くなったという感じを強く抱くのは、この人の骨太な文章と仕事を少しばかりは知っているからかもしれない。
 夕方、S君来たりて1時間ほど歓談する。例年のように社会の様子と因島の文化について話す。
 島の文化もどんどん失われていくのだから、このへんでまとめておくのもいいのではないか思う。
 結局、紀要用原稿は起筆せず。
 
1991年1月5日土曜日晴れ後曇り、夕方より雪。 
 午前中、シャルルの法則の課題研究の紀要原稿を起稿する。2日程度で仕上げる予定であったが、そうも簡単ではない。しかし、去年の仁丹の延長と考えれば、楽である。もうひとつの、課題研究についての理論編は1月中にできるかわからない。
 5時頃から雪が舞う。空は暗くなる。昼の台所の温度が6℃だったから、今日は昨日までに比べるとかなり寒いといえる。明日も道路は混むだろう。
 
1991年1月6日日曜日晴れ、寒い日。 
 大変寒い。裏の水が凍っていたらしい。鯉は泳いでいる。餌も食べる。
 朝からシャルルの法則の課題研究のレポート作成に精を出す。大変しんどい仕事である。しかし、今しておかなければ二度とまとまることはあるまいと思って頑張っている。
 
1991年1月7日月曜日晴れ、昨日よりも暖かいか。 
 9時過ぎに起き、餅を1つ食べた後、すぐに部屋に籠もり、紀要の原稿を書く。まだ半分もできぬが少しずつ形があらわれてきた。残りは一息に完成させたい。年賀状2通。
 ただ今、23時過ぎ。原稿7割といったところか。エッセーを書くのと違い、大変だ。色々と書くことを探しながら考えていくのだから、おいそれとはできない。しかし、いつまでもかかわっておれないのであまり深い考察にはならないが、この辺で結論をだしておかねばと思う。
 「現代」(月刊誌)の公告。近代の100冊を選ぶ。三島由紀夫小林秀雄はなぜ落ちたか。白熱討議とある。選ぶ人が悪い。近代日本に本当に読まなければならない本が100冊もあるか。あるものか。また、時代の流れに影響を与えた本が100冊もあるか。あるものか。騒がれたということ、売れたということは、影響を与えたということとは違う。
 肩が痛くなった。朝からずっとワープロを打ちっぱなしだ。今紀要が1ページ4枚だから、6ページ書いて24枚だ。これくらいこんを詰めるとちょっとした短篇が書けるというものだ。ワープロで肩が痛くなったのは久しぶりだ。教育センターの紀要のときもアンメルツを塗り塗りやった。さらに、附属に移ってからもアンメルツを学校に置いていたような気もする。
 夜11時頃になって雨が降りだした。風もでてきた。また、寒くなるかもしれない。今日はは比較的暖かかった。この部屋も夕食後少しストーブを入れたが、西側の和室にいるというので、ここのをもっていき、丸型のを設置したが、点けていない。炬燵だけでけっこうやっていけるというのは、それだけ暖かいということだろう。そうそう、このワープロも、机の上では寒くついつい炬燵に入って休みがちになるので、いっそうのことここで仕事をしようと、炬燵の上に置いてある。腰にはこたえるかもしれないがいつでも打てて好都合である。
 
1991年1月8日火曜日晴れ、一時小雨。
 本日で冬休みも終わり。明日から3学期がはじまる。
 公民館で7時半より、初老会の地元男女合同総会があるが、行事のコピーをもっていって早々に帰って来る。
 23時15分、紀要用原稿「気体の性質に関する課題研究の授業実践-シャルルの法則を検証する-」(9ページ、約35枚)を脱稿する。1月4日の午前中からであるので、丸4日かかったということである。こんなにかかるとは思わなかった。それでも去年よりはいい。
 
1991年1月9日水曜日晴れ。本日始業式。
 本日より3学期が始まる。紀要原稿提出。写真は、4枚を選んだ。
 8時半と10時、火の番の夜回りをする。
 
1991年1月10日木曜日。晴れ。
 県の会誌用原稿を書くこと。舎密の今月号を早く発行すること。などなどたくさん課題があるので少しずつかたづけていきたい。
 
1991年1月21日月曜日。朝から雨。
 学校をでたのが9時40分。家についたのが10時30分。やはり50分かかる。
 
1991年1月22日火曜日。曇り時々晴れ。
 ゆっくり読書などしておけばいいのだが、こういうのもまあ人生というものだろうと思ってあきらめる。
 
1991年1月23日水曜日。晴れ。
 「暁の寺」性の千年王国
 
1991年1月24日木曜日晴れのち曇り。午後から雨。
 今日は朝6時20分に起き、6時30分に家を出た。学校についたのは7時10分であった。備後赤坂で少し渋滞したがいつもに比べれば大変順調に流れた。8時まで辻邦生の「永遠の書架にたちて」(新潮社)を読む。やはり小説とは何かという僕のいつもの問いにかなう書物である。もっともっと読まなければと思う。
 家に着いたのが10時10分。寝る前に、今昔物語を少し読む。それに、吉田精一の「文学入門」の小説のところを少し。
 
1991年1月25日金曜日。晴れ。
 今日より進路カードの記入を開始する。
 バスの中で「暁の寺」。電車の中で「漱石と倫塔ミイラ殺人事件」。
 「V」のPart5を見る。おもしろい。
 
1991年1月26日土曜日。晴れ。
 辻邦生の「永遠の書架にたちて」を少し読む。進路カードを書く。2時過ぎには家につく。尾道ヘミングウェイトーマス・マン等の小説を買ってくる。三島の「鹿鳴館」(新潮文庫)も。小室直樹三島由紀夫と『天皇』」(天山文庫)はたいへんおもしろい。文章は少々荒っぽいが仏教解釈においてはよくできている。それに2、3僕の知らない資料も使っているのには負ける。
 深夜、「****」起稿す。トーマス・マンの「魔の山」に倣ったものの予定。
 
1991年1月27日日曜日曇り。
 1限に6年生の最後の授業。2限は5年の沸点上昇。
 辻邦生の「永遠の書架にたちて」を少し読む。あと新潮社の古典文学アルバムで「百人一首」。これはあまりおもしろくない。
 夜、及川大渓の「芸備の伝承」を終える。最後の原爆罹災の記録には感動した。第一級の資料である。
 
1991年1月28日月曜日晴れ。
 朝6時10分におきて、家を出たのが6時30分の少し前であった。まだくらい街を自動車で通過するのも楽しい。よく見ると、もううっすらと夜は開けはじめていた。橋のうえから見る布苅り瀬戸も黒い霞におおわれているものの、徐々に白みはじめて実に見事な暁時である。紫色が微かにかかっていかにも冬の朝という感じで楽しかった。向島に渡ると、やがて町々の明かりが見えてくる。この明かりの夥しい乱立に、こんなにも家があったのかと改めて驚かされる。
 
 7時15分に学校に着く。辻邦生の「永遠の書架にたちて」を読む。
 1限2限で、進路カードを終える。次は期末テストと学籍簿である。
 10時前に家に帰る。
 
1991年1月29日火曜日。晴れ。
 昼間は本を読む。
 
1991年1月30日水日曜日。晴れ。
 浸透圧。
 4限は紀要の初校。4時からは辻邦男の「永遠の書架にたちて」のラテンアメリカ文学についての項を読む。
 帰りは「暁の寺」。後半はなんともやりきれない感じの物語である。老年の本多が徹底的に嫌らしく描かれているわけであるが、この生を三島は自ら体験したに違いない。
 
1991年1月31日木曜日。晴れ。
 本日で一月も終わり。これで一年の十二分の一が終わったかと思うと、人生なんてあっというまではないか。
 朝、向島でラッシュにあいバスが遅れた。
 バス、電車の中は「暁の寺」終盤部。三島はこんな形で本多の老年を書きたくなかったのではないか。できうるならば、避けたかったに違いない。今までにも三島は老人について書かなかった訳ではない。それぞれの作品にほどよく嫌味を効かせた老人が出てくる。そして、それらを描く三島は相当に感情を移入し、それらの人物になりきって書いたに違いない。しかし、それらの人物は三島本人の分身ではあったものの、かなりの距離があったので、程よく余裕をもって描いたに違いない。しかし、本多の場合は違う。あまりにも、三島に近い人物に設定しすぎたのではないか。そのために。本多の生は、三島自身の生として体験できる。そのとき、三島は、このような醜い老年をいかに主人公とはいえ、自分にもっともよく似た人物をこのように活動させたくなかったに違いない。しかし……ドラマはそのようにはすすまなかった。
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