夕凪亭別館

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1972年3月

1972年3月1日。水曜日。
 初春とも盛冬とも言い難いような日の午後。太陽は既に春の笑顔なのに,昨日からの寒波で室内には,しっとりと冷気が漲っている。電気ストーブの暖房でかろうじて,おられる。二つのスピーカーからは,哀しいばかりに切ない雰囲気を醸し出す音楽が,静かだが力強く,部屋の窓窓を揺さぶっている。
 そもそも認識は不幸の始まりである。明晰は徳ではない。知恵でもなければ長所でもない。明晰は,人間のうちでもっとも強い精神を必用とするのだ。あるいはまた,豊饒な魂を必用とするといいかえてもよい。知るということは怖ろしいことだ。不毛な精神にとって,認識ほど害毒なものはない。
 
 六時から八時まで家庭教師。八時から九時まで夕食と休憩。誰もいない世界に住むということは苦しいことだと思う。無目的とは言わないまでも,およそ充実とはほど遠い,すなわち生きている実感のない生活を毎日送っている。政治には発言を控えようと思うし,文学には何か底知れぬ困難がある。
  もし,現在最も幸福な時間はと考えれば,手紙を書いているときと答えることができる。
 少し寒い。
 来年は電気炬燵を買おう。今年は暖冬でもったようなものだ。こんな気象が一月も続いたら,電気ストーブだけでは,間に合うわけがない。
 時々生きている世界が幻のように感じられるときがある。以前の空想と,現実との接近ではないが。
 
1972年3月4日。土曜日。
 久し振りによいお天気で,春の日ざしが斜めに部屋に入って来る。
 県北では大雪だと,ラジオが伝えている。
 中国新聞に広大の入試問題が出ている。国語で船乗りクプクプの冒頭が出ていたのは意外だった。つい最近読んだばかりなので,親しみがもてる。文章は極めて平易であるから裏の裏を考える必用がなく,明確な問いが作れるだろう。
 
 クラ討連なるところから,一通の郵便が来ていた。大学闘争への呼びかけである。彼らは(実態ははっきりしない)自己解放,主体性確立という大義名分を(悪文この上ないのだが)を掲げて我々(我々とは印刷されたものを読む傍観者たちのこと。内容はすべて印刷されたものであったから”われわれ”か)に向かって”闘争”への参加を勧誘しているのだ。
 なんとおろかなことであろう。自己解放とは何か? 個人の主体性とは何か? 大学当局あるいは国家権力へ向かっての欲求不満の爆発で得られると思っているのか?
 彼らの”闘争”すなわち革命ごっこによって得られると思っているのか! 個人の主体性にしても,自己解放にしても,そんなに甘いもので得られるようなものはであるまい。解放にしても主体性にしても,我々個人が,日々を確固たる足取りで生きてゆくところにしかありはすまい。現在のような複雑な社会ではより明確なことだ。
 何時の時代でも同じことだ。上部指導者は政治をやっている反体制政治家見習い諸君であり,何事かあると,日々の日常性すなわち,有り余る自由に耐えきれなくなった一般学生諸君が,積極的良心をもって追従していく。・・・そしていつの日か,行動或いは目的のあまりにも大きな差に気が付き,離れてゆく。そして彼らは更に,日々の倦怠と虚無の中に沈んでいくしかないのだ。そして彼らは,経験という名においてしか自己正当化はできないであろう。
 
1972年3月5日。日曜日。
 五時前,K来る。いつ聞いても彼の言うことはわからない。言うはしから論理というものをはみ出している。あれだけしゃべれるのには,やはり感受性といくらかの知恵がなくてはなるまい。
 無知なるものの喜びは,かくなるものか。おおよそ悲劇とは縁遠い。僕も彼のようであればよかったのに。しかし,時間は逆行しない。無知から知へ進むことはあっても,知から無知へ進ことはあるまい。残念なるかな。
 
1972年3月6日。月曜日。
 朝,M君より電話あり。帰省されていたようである。勉強するために来広したのだから来れない。試験が終わって来ると言っていた。
 朝からぽかぽかと暖かい。
 昨夜,「悲劇人の姿勢」を読み終える。すべて有益であった。”ヨーロッパを探す日本人”は,作者の言っているとおり,楽しく読めた。とくにニーチェゆかりの地の挿話はおもしろい。ニーチェがドイツではそんなに歓迎されていない,ということも教えられた。
 第二部は,おりしも,僕自身が紛争の最中にあったので,示唆も多く有益であった。
 「ヨーロッパ像の転換」も早く読んでみたいと思う。
 小林秀雄も,福田恒存論も,ニーチェ論も楽しく読めた。特に小林秀雄は,去年角川文庫の「私の人生観」を大変面白く読んだのに,そのままにしていて,改めて興味を引かれた。意味深い。
 
 この部屋に来る人間は,ほとんど書物の多いことを言う。褒めているのか,貶しているのか,知らない。多少羨望の念から皮肉っぽく言うのであろう。大変不愉快だ。もう,読んだ本はどんどん家にもって帰ろう。
 書物の量などで褒められても,ちっとも嬉しくはない。心の中に悲哀を感じるだけである。
 
 文学など志そうとは思わぬ。ただ,情熱があれば,読めばいい。読み,そして考えることは有益なことである。決して悪いことではないということが,この一年間の読書経験によってわかった。これからも,時間の許す限り,どんどん読んでいく。そして常に考える。そして後退することもあってもいいが,前進することを考える。
 最近,桑原武夫編の「一日一言」を机上に置いている。この種の本は他にもあることを知っているが,これが実際に読む最初の本である。歴史事象によって考えるのもいいことだと思う。
 ミケランジェロが今日生まれている。美しいものはただ美しい。
 
1972年3月7日。火曜日。
 ボードレール作,福永武彦訳「パリの憂愁」(岩波文庫)。購入。星2つ。蔵書番号247。
 A君より電話。四時半だ。四時からの予定が遅くなったので,今日はもういいと言う。何という自由!  何という不自由。無限の砂漠へ投げ出されたような気持ちだ。予定からはみ出してしまった時間。
 「地獄の季節」ランボオ小林秀雄訳より
   時よ,来い,
   ああ,陶酔の時よ,来い。
 
1972年3月8日。水曜日。
 期末試験中止。あるいはあったというべきであろうか。何もする気がしない。単なるノンポリに僕は過ぎない。ノンポリとして自信をもつと危険だ。ただ黙する。
 何もする気がしないので,午後,手紙を書く。
 
1972年3月10日。金曜日。晴れ。
 この虚脱感は一体どこから来るのであろうか? 闘争に参加した日もなく,あるものに向かって精一杯戦ったというのでもない。
 思えば,この一月あまり,虚無と無力感との板挟みのような生活だった。
 目標はない。意味もない。未来などはないのだから,理想ももちろんない。あるのは,ただ瞬間のみである。でも,やはりその瞬間もなかったと言ったほうがよいような一日だった。
 
1972年3月11日。土曜日。晴れ。
因島にて)
 10時20分の山陽2号で帰省。因島に帰ろうとする日はいつも何故だか,太陽が陽気で親しみを感じる。久々の休暇。なごやか。やすらいだ気分である。
 尾道駅で下車すると。尾短の入試案内が目に入る。
 やはり家はいい。生活というものに様式を創る必用がないのが,気楽な原因かもしれない。
 父から「山高水長図記」の本をいただく。読めないから僕にやろうというのだ。喜んでもらう。多分読めないのではなかろう。読む気がしないだけであろう。久し振りに新聞に詳しく目を通す。相変わらずつまらないことを書いている。
 
1972年3月12日。日曜日。晴れ。
 午後,一週間分の新聞を読み,その後,散髪にいく。讀賣と毎日を見る。赤軍派リンチは凄まじい。いつも凶悪な事件が起こると,いわゆる心理学者たちが紙上で好きなことを言う。なるほど,もっともなことを言っているのである。誰が読んでも反対を主張する人も少ないし,一見,正しい,要を得たことを言っている,その正しいことに僕は疑問を感じないではいられない。心理学は統計に基づく単なる人間の性質の分類に他ならない。
 
 田辺聖子作「さよならはいわないで」(10:15~11:00NHKFM))
 最近のアヴァン・ギャルトのとは違って,久し振りにオーソドックスなものを聞いた。なかなかよくできた,面白いドラマだった。人生肯定の生に対する大らかな賛歌であろうか? 今の僕には,生はそんなに喜びや希望に満ちたものとは思われない。幾多の苦境-それ以外のものではなく,その中で,ごく一部の喜びを楽しみ,小さな幸せに満足するより,他にはない。
 「上を見たらキリがない」し,「下を見たら後がない」のであるから,適当なところで自分の生きるべき,あるいは,生きることのできる世界を見出して,安住の地を見つけて,そこで精一杯生きる他はないのだ。
 何かに向かって努力したところで,むなしい。社会的地位も,名誉も。称号もどうでもいいと思う。未来は結局未来でしかなく,僕は僕以外ではないのだ。生きるとは,その与えられた環境で精一杯に生きるしかなく,いたづらにすべてを危険にさらすのは,男らしいことであるかもしれないが,社会はそんなに生やさしいものでもあるまいから,愚かしいともいえる。
 人生は長いようで案外短いのだから,人の為とか,社会の為といって,何事かをなそうとするのは愚の骨頂だ。全て自分の為に何かをやるのが最も正直なことであり,正しい生き方だと僕は思う。勿論,社会の中の個人であり,人類の中の個人であるから,自分の為にやったことが他人のためになり,世のためになれば,それは素晴らしいことであり,立派なことだ。(そんな生活が理想であるかも知れない)。世の中にはそういう人物も多い。尊敬すべきことであろう。しかし,それは僕としては無関係であるし,そういう人は,そういう人であったのであり,それでいいのだ。僕は僕であり,またそれでいいのだ。
 啄木(中央公論社「日本の詩歌5」)を取り出して読む。やはり素晴らしい。心に響くものが,筆舌に尽くしがたい感動をもって,魂をゆさぶる。青春の感傷であろうか,それとも日本人,あるいは人類の,心の奥にあるものと,共鳴するのかも知れない。
 
 夕方,広島に電話してみた。何の連絡もないという。新聞にも発表されないので,どうなっているのかわからない。毎日のんびりとしすぎだ。
 
夜空はかすかに青く  星はうつろにまたたく 遠くの蛍光灯が白く静かについている。
星明かりに山の影がぼんやりと見える。静かな夜  風もない  人もいない。
星を見ているいると 平和だなあと思う どうしているだろうか。
 
最近の重井の 夕焼けというものを まだ見ていない。
どうだろうか 一八歳のときの夕焼けと 二〇歳の夕焼けは。
春の楽しさがある。冬は去り,やがて暖かい春が来る
千光寺山の桜もほころびはじめたという。
正月に歩いたときには、人もまばらで、堅い小さなつぼみが、ひっそりと立っていた。
葉もなく、色も無かった。それでもやはり、生きているというのはわかった。
汐風は冷たく 冬の海は 冷たい。決して 人を寄せつけはしない。
 
白滝山は 今日も静かだ この山は 僕の育ったところ 僕のふるさと
この山に 僕のすべてがある
 
桑原武夫編の「一日一言」を持って帰るのを忘れた。残念な気がする。今度行ったら,もって来よう。
 
1972年3月13日。月曜日。晴れ。一時小雨。
 日毎に暖かくなって行く。チコはなかなか頭のいい犬で,例のおすわり,お手,代え手,ねんね,等いまだ忘れず,うまくやることができる。最後に,小屋に入れ,出ろ,と言ったらよく言うことをきいた。おもしろい犬だ。
 無機化学を連日やっている。あまり好きでないものでも,ずっとやっているとおもしろくなるものである。好き嫌いというのは,そもそも未知故に生ずることで,本当に好き嫌いのわかるのは,何年か深く追求してからのことであろう。何でも相当量の時間と熱意をもって打ち込んでみると,好きになりまたいくらかは他人より秀で,自信をもつようになるものである。
 下宿に電話した。最初おばちゃんが出て,すぐにKに取り次いでくれた。Kの話だと,何の連絡もなく追試は早くても四月になるだろうと言う。もしこの通りになれば,そして,団交が三月中に片づかなかったら,四月になっても紛争は続くかもしれない。その覚悟はしておく必用があろう。
 
「図書」を弟のところからもってきみて見る。鴎外全集の案内を見て,その量の大部なのに今更ながら驚かされる。やはり,彼は偉大な人間であると同時に,様々な面にわたって相当量の勉強をしたのであろう。そしてまた,その思考結果を記述しておくことも忘れなかったのであろう。鴎外漱石とまではいかなくても,先達のよきものは習い,日々努力せねばならぬ。
 NHKTVで庄司薫原作の「白鳥の歌なんか聞こえない」(10回のうち第1回)を見る。三部作の一括放映らしい。原作を読む気はしないがTVで見るのは面白そうなので,10回分できれば見たいと思う。
 
 西尾幹二氏の「ヨーロッパ像の転換」を読んでいる。やはり,氏らしく,いつ読んでも素晴らしいのだが,こういう書物は文芸関係のものと違って,あまりおもしろくない。やはり,文芸を中心に読書することにより,様々な知識をつけ,また考えるのがいいと思う。
 
 高校時代の日本史の参考書を引っ張り出してきて,満州事変のあたりやら,終戦まで読む。この時代はいつ読んでもおもしろい。また,その時代の激動ゆえに考えさせられるものが多々ある。最近の日本の状況と,少し似ているように思える。三流歴史家は,すぐに何か事件を対応させて喜んでいるが,僕はそんなことは好まないのでしない。時代の雰囲気が似ていると僕は思うのだ。最近の社会状況で言えば,ドルショック以来の不景気とともに。
 
1972年3月14日。火曜日。
 おりしも,公立高校の入試が昨日から行われている。五年たったのだ。
  岩波文庫源氏物語一」求める。
 
1972年3月15日。水曜日。晴れ。
 朝から暖かい天気だ。春らしい明るい光がなぜか幸福にする。
 今日から岡山まで新幹線が走ることになる。素晴らしいことだ。
 連日続いた連合赤軍事件のニュースが,多少下火になったようだ。それでもまだまだそれに関する事件はあるらしく,毎日わずかであるが報道されている。
 昨夜姉から電話があ。湯河原に行っているとか。・・楽しいことだ。彼女は旅行が好きでもあるし,得意なことだからさぞかしよくあった趣味であろう。
 
 山高水長図記の雲遊三絶のところに,勉強をして病気になるのはよくないと秋帆が言っている。なるほど,その通りだ。昨今こんなことを言う人はあまりいない。忘れかけられたようなことだが,その意義は大きい。よく覚えておかなければ。
 白滝山に登る。チコを連れて散歩に行ったのだ。裏道を通る。ちょうど北側から東の向島のあたりが一番美しい。海と空が青く澄んでいて永遠の美しさとは,このようなものかと思う。いつ見てもいい。四季それぞれの美しさがある。今日の海はほんとうに青いし,みず色に輝いていた。
 松の木が少なくなった。頂上で,辺りを見回しても,以前よりずっと少ない。
 
1972年3月16日。木曜日。曇り後雨。
 今日16日は広大入試発表の日である。ちょうど,去年の今日,発表された。一便で広島に行って,自分の目で確かめた。
 今でもよく覚えている。北門から入った。駅からタクシーで直行し,北門をくぐり抜け,理学部の掲示板にたどり着いた。化学科・・・あっあった・・・安心-(もう一度見ると)あれ?ない,ない,・・・(ギクリとする)そして三度目を!・・あった。やはりあった。・・・・
 
 そして,その日は暮れた。
 聞くところによると,多くの人が祝福の声を両親にかけたということであった。
 
 夜,NHKテレビで庄司薫原作の「白鳥の歌なんか聞こえない」を見る。面白い。原作が読みたくなった。
 
1972年3月18日。土曜日。晴れ。
 夜,姉帰る。
 「春の雪」を読んでいる。
 
1972年3月20日。月曜日。春分の日。雨。
 ”暑さ寒さも彼岸まで”というが,ほんとうに暖かくなったように思える。今日は朝から雨で,午後の暗雲はさながら台風の一日のようで,雨打つ音のかもし出す心はまた異常なものであった。
 
 
1972年3月27日。月曜日。
 うつろな日が過ぎる。
 学習も読書も何もしたくない日がよくある。
 努力と人は簡単に云うが,この言葉は行為を象徴する言葉であっても,決して目標かあるいは人をある仕事-努力に向けて鼓舞することはありえない。
 たとえば,読書にしても,かような膨大な量の書物を見ると,その完全さが不可能なゆえに少量の効というものを忘れる。