夕凪亭別館

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夕凪亭閑話 2006年6月

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2006年6月2日金曜日

 6月は蝸牛(カタツムリ)の季節である。しかし,最近はカタツムリにもなかなかお目にかかれない。いるのはナメクジばかりである。昔は,橙の木の下によくいた。幹を登ることもある。通った跡は,ナメクジ同様きらきらと光る透明な道筋を残す。日中は蕗の下にひっそりと隠れていることもよくあった。

 蝸牛は雌雄同体で,一匹でも子孫を残せるが,相手がいれば,そちらを選ぶという,便利な生態をしていると,何処かで読んだことがある。同じように見える蝸牛でも,それぞれ個性があって,まったく親と同じであれば,環境の変動にも同じような影響を受けるから,できるだけ多様な子孫を残す方が合理的だという,天の配剤によるのであろうか。

2006年6月3日土曜日

 やっと夏になったようである。しかし,梅雨前というのに湿度は低く,日陰ではさわやかであった。庭の踏み石の間に雑草が生えてかなわないので,セメントで固めてカドにした。カドといっても,こういう言葉が分かる人は多くはなかろうから,少し説明が必要だろう。

 カドを説明しようとしたら,瀬戸内地方の農家の構造から話さなければならない。一軒の農家があるとしよう。市道から私道を経て農家の敷地に入る。住居と倉庫がある。その間と前の広い空間がカドである。角(かど),四つ角とかいう「かど」が,かにアクセントがあるのに対して,この広場のカドはドにアクセントがある。現在なら住居の前の空間は庭と呼ぶべきだろうが,農家にとって庭は玄関の戸を開けて入った土間が庭(ニワ)である。この庭の左に和室がある。6畳か8畳である。さらにその左奥に床の間つきの和室がある。ここが上の間(おかのま)で,土間のすぐ左が下の間(したのま)である。土間の右手には,木製の丈夫な戸のついた物入れがある。これが「ネズミイラズ」である。

 いうことで,「ニワ」と「カド」の関係がおわかりになられたであろうか。だから,庭の一部をセメントで固めれば,そこはカドになるのである。

2006年6月11日日曜日

 カドを作るのに,庭の土を掘り返しているので,そこから出た虫を食べに,雀が夕凪亭の前へしきりとやってくる。よく聞いていると,来る時と逃げる時の囀りが異なるようだ。さながら,はじめのは「餌があるぞ」と解釈できた。後のほうは「危険だ,逃げろ!」と言っているようであった。こういう話しを家人にすると,受験生の息子は,餌を教えることはない,他のものが見てやってきただけだと言って,平和論者の私と見解が相違した。かように,雀の囀り一つの解釈を巡っても,観察者の人生観やら思想が反映するものであるらしい。イギリスのフラシシス・ベーコンがイドラと呼んだものである。「種族のイドラ」「洞窟のイドラ」「市場のイドラ」「劇場のイドラ」である。上記の例は「洞窟のイドラ」であって,人間個人のイドラのことである。THE NEW ORGANON から該当のところを引用しておこう。

XLII

The Idols of the Cave are the idols of the individual man. For everyone (besides the errors common to human nature in general) has a cave or den of his own, which refracts and discolors the light of nature, owing either to his own proper and peculiar nature; or to his education and conversation with others; or to the reading of books, and the authority of those whom he esteems and admires; or to the differences of impressions, accordingly as they take place in a mind preoccupied and predisposed or in a mind indifferent and settled; or the like. So that the spirit of man (according as it is meted out to different individuals) is in fact a thing variable and full of perturbation, and governed as it were by chance. Whence it was well observed by Heraclitus that men look for sciences in their own lesser worlds, and not in the greater or common world.

 さて,さらに雀の行動を観察していると,見張りが一羽いることがある。そしてその見張りは,餌を取ることなく,同じ調子で鳴き続けている。「今は,安全だ」という合図だろう。そして時々,餌を啄んでいる他の雀が,その見張りに餌を運ぶのだ。

2006年6月12日月曜日

 雀と言えば,舌切り雀だが,今日は,雀と蝶の対話という面白い話しを紹介しておこう。雀は秋になると,蛤に変化するという俗説があった。そういえば,幼稚園の遠足で行った砂浜には浅蜊より少し小さい,薄黄色の殻をもった二枚貝がいた。スズメ貝と言って,取って遊ぶのだが,浅蜊と異なり食用にする習慣がないから,捨てて帰る。普通潮干狩りというのは,灰色から黒に近い磯土の中にいる浅蜊を獲る。浅蜊は,砂浜にはいなくて,このスズメ貝というのは,海水浴をする満潮に近いころでも獲れるから,幼児にとっては楽しい。しかし,ほどなくしてそのスズメ貝はいなくなった。確かに,あの頃の海は,おとぎ話に出てくる海のようにきれいだった。

 さて,その秋になったら,蛤にならなければならない雀が,蝶に言う。おまえは毛虫から,美しい蝶になって,自由に飛び回れるようになった。それに引き替え,自分は今は自由に飛び回っているが,秋になるといかなる因果か,蛤になって冷たい海の底で,外の世界も見ずに暮らさなくてはならない,と嘆く。

 それを聞いて,蝶は「嘆くなかれ。汝が下落にもあらず,我が立身にもあらず。」と言って雀を慰める。毛虫から蝶へどのように変化したか覚えていないし,まして毛虫の時のことは忘れてしまった。雀さんも自然に蛤になって,蛤になったら,雀のときのことは忘れて,蛤の心になって「極寒にも水中を家として,寒き事もなく,転びまはりて,相応に世をわたるならむ。」というわけで,蝶の演説はまだまだ続く。輪廻転生といっても,「前生の事,誰か覚へたるあらむや。」というわけである。

 という,なかなか含蓄に富んだ話しが,江戸時代の思想小説的戯作「田舎荘子」の巻頭を飾る「雀蝶変化」である。新日本古典文学大系の81巻にある。

2006年6月13日火曜日

 子供の頃,雀を飼ったことがあります。といっても,わずかな期間で,結局餌付けできなかったので,逃がしてやりました。春になって,樋と屋根の間に作っている巣に手を入れて,飛び立つ前の雀をつかまえて来ました。それを,金網で覆った箱に入れて飼育していました。しかし,残念ながら,僕がやった餌は食べてくれません。雀から離れていると親鳥が,餌を掴まえてきて,金網越しにやっていました。その光景を何度も目撃し,これでは飼育の意味がないと思い,諦めて逃がしました。何度か,やってみましたが,いずれも同じ結果でした。眼が開く前から育てないと,なつかないとは,よく聞くことです。でも,残念ながら,眼が開いている前の雀の雛で,無事育てたということはありませんでした。すなわち,雀を手なづけたことは,残念ながら,ないのです。

2006年6月18日土曜日

 最近の読書から。

 「ダ・ヴィンチ・コード」上(角川文庫)。もっと先が読みたい,という気持ちになかなかなりません。凱旋門近くのロータリーは,昔,「ジャッカルの日」という,これまた世界的なベストセラーにも出てきて,そのときは,その先が知りたくて,熱中したものですが・・・。

  島田荘司「ロシア幽霊軍艦事件」(原書房)。これは図書館から借りてきて。返却日があるので,ある程度時間を割かねば・・・,ということで,珍しく集中した。ロシア革命の復習。ロマノフの秘宝とかペトロフ事件に興味ある方はどうぞ。アナスタシアものですが・・・。

2006年6月21日水曜日

 本日は夏至である。例の理科年表によると,太陽黄経90°,(21時26分)ということで,つい先ほど,黄経90°を通過した。7時45分くらいまで,明るかった。朝は4時過ぎから明るい。

 我は海の子。我は夏至の子,である。そのせいかどうかはわからないが,夏ばてというものを知らない。暑くもても食欲は一向に衰えない。しかし,汗が出るので,動くのは嫌だ。

 梅雨の中休みも終わり,明日からは雨が降りそうである。雨ニモマケズ,・・・夏ノ暑サニモマケズ・・・。

 その夏の暑さを,弘法大師さまのお力にすがろうというわけではないが,昨日,四国八十八カ所霊場巡拝御寶印譜の掛け軸が完成し,届いたので,般若心経を唱えて軸開きをした。息子にどういうものか説明すると,新種の動物でも見るような眼で見ていた。一応分かっとは言ったが,お互いに異次元の世界に棲んでいることを確認しただけであった。

 

2006年6月23日金曜日

  昨日は大雨洪水警報が出るほどの激しい雨で,いよいよ梅雨も本格化して,湿度の高い日が続く。子供より親が大事と言った太宰治ではないが,人間より,本のほうが大事,と思いたい。ということで,夕凪亭では,バンバンとエアコンを効かせて,除湿している。何しろ,自分で設置したエアコンだから,今年も動くだろうかと,不安なのであった。セパレート式のエアコンは室外機と室内機を結ぶ銅のパイプの接続が一番難しい。トルクレンチなるもので,締め付ければいいのだが,そういう工具は買っていないから,カンで行うしかない。締め過ぎると銅のテーパー部分を割る。締め付けが弱いと,当然のことながらガスが漏れる。これまでの経験では,1年もてば,だいたい大丈夫のようだ。ガス圧が低いと,室外機の送出側に霜がつく。こうなると,素人の哀しさ,お手上げである。その部分が霜でなく水滴がつくようだったら,順調に行っている。

2006年6月25日日曜日

 最近の読書から。宮部みゆき「理由」(朝日新聞社)。これも図書館から借りてきて。よく出来た小説です。と言っても,宮部さんの本は,どれもよく出来ていますから,今更,傑作ですとか言う必要はありません。もうずっと前のことですが,「レベル7」とか「パーフェクトブルー」とか「龍は眠る」とか「悪魔はささやく」とか,いろいろ読んで,大ファンだったのですが,面白すぎて読むのをやめていた次第。正確に書くと,面白くなって,あっという間に読んで,しばらくして忘れてしまうので,読むのをやめていたのである。今回も,急いではいけないと,何度も自分に言い聞かせていたのだが,半分も行かないうちに,加速度がついて・・・・。offする理由が,丁寧に,リアルに書かれていたということと,不動産取引というのは,やはり大変なのですね,ということが残ったので,後は忘れてもいいことにしましょう。最後に,どんでん返しをしてもよいだけの材料があったのにしなかったのは,残念ですが,それは,主題とのかかわりですから,仕方がないか。

 今朝からカウンターを,crystal top 頁につけました。夜になって,同一IPアドレスからの連続アクセスは2回目をカウントしないように設定しました。あいだに,他のIPからアクセスがあれば,またカウントすると思います。

2006年6月27日火曜日

 本田靖春サンパウロからアマゾンへ」(北洋社)を読んだ。ブラジルのレポートである。ブラジルのレポートは,日系人社会を描いたものと,アマゾンの大自然を描いたものが大部分である。この本は前者である。といっても,アマゾンの大自然の中にも日系人社会はあるから,その記述がないことはない。昭和51年に書かれたこの本がなぜ夕凪亭の書棚にあるのかというと,北杜夫さんの「輝ける碧き空の下で」という小説の参考文献にあったからである。第2部のほうである。ピメンタもジュードの話しも,ほんのわずかだが,それでも,アマゾンに住む日系人の歴史と様子がよくわかる得難いレポートである。そして,そこから見た日本及び日本人への提言も,ジャーナリスト魂のなせるところであろう。

2006年6月29日木曜日

 7時前になって,曇った空の雲の切れ目から日が射しだした。今日も蒸し暑くなりそうな気配だ。とはいえ,また明日からは雨という天気予報。空梅雨というのは例年のことだが,今年は梅雨らしい梅雨だ。しかし,降り出すと激しい。やはり,温暖化による異常は続いていると見るべきか。

 遅ればせながら,山梔子が咲いた。まだ一輪だけである。早い家では一週間くらい前から咲いて,近くを通るとあの独特の香りが匂っていた。早く咲かないかと期待していたら,やっと咲いた。折ってきてコップに刺してテーブルの上に置いた。まだ匂いは弱い。

2006年6月30日金曜日

 去年植えた紫陽花は何とか根付いたのに,今年は咲かなかった。来年は咲きますように。このところの,温度上昇により,西洋朝顔が急に大きくなりはじめた。蔓が地を這っているので,そろそろ天に向かうようにしてやらねば。メダカも何尾か生まれている。暑いか,雨かどちらかなので,卵を分離することもせず,勝手に繁殖させている。去年買ったウォーターレタスは,結局屋外では冬を越すことはできなかったが,屋内にあったものが外に出すと,再び増え始めた。根のところに茶色い泥を集める。おかげで水は澄み,好都合である。菱にも似たような作用があるのか,ある日突然水が澄む。コロイド化学でいう,凝析である。これで思い出すのは,昔,田んぼでみたことのあるドジョウだ。鰓で呼吸するから鰓の動きを飽かず眺めていると,ドジョウの周囲だけが水が澄んでいたことがあった。あれも,凝析させるようなものをドジョウが分泌していたのではないか,と思う。

 紫陽花は咲いていないが,ミニ薔薇が9輪,真紅の花びらが雨にぬれている。夕凪亭は,塀に沿って植えてある木蓮やモッコウバラやタイサンボクによく似た木やバベが繁って,道路からはほとんど見えないので,日が暮れるまでカーテンはしない。青く煙った遅い黄昏が次第に小雨の夜のなかに浸されていった。そしてやがて,6月も終わる。2006年も半分終わった。ああ。

 

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