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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料  第4回 2016.8.16.(共催:因島白滝公園保勝会)

いんのしまみち しげいみち おおはまみち なかのしょうみち とのうらみち かがみうらみち むくのうらみち みつのしょうみち はぶみち たくまみち 日本のみち

第4回

p.51-52] [p.69-70]  [p.53-58] [p.59-61] [p.62] [p.63] [p.64-65] [p.66]  [p.67-68]  

 

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壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録)

 

1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

 6月29日の豪雨で転落した3体の十大弟子の修復を胡光夫さんの指導のもとに7月24日と31日に行った。両日とも区長会から2名が参加した。24日には13名で西側の十大弟子十六羅漢を下ろして土台を修復し、31日に11名で復元完了した。また、裏参道の補修を継続的に行なっており、8月7日には石板、小石、ブロック、砂利、セメント、砂などの資材を大量に運んだ。

 

2。白滝山について  その4 [p.53-61]

 今回は、柏原舒延著「霊峰白滝山の沿革」については、

(12)一観の「素意」     「反省ノ泉」昭和44年2月1日発行 第196号(12)〜(17)

(13)一観伝道哀史      「反省ノ泉」昭和44年3月1日発行 第197号

(14)白衣観音の木像     「反省ノ泉」昭和44年4月1日発行 第198号

(15)一観の伝道精神         「反省ノ泉」昭和44年5月1日発行 第199号

(16)歌にみえる一観の教    「反省ノ泉」昭和44年6月1日発行  第200号

(17)歌にみえる一観の教(続)   「反省ノ泉」昭和44年7月1日発行  第201号

の6回分を読む。[p.53-58]

 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の生口嶋、三嶋、岩城、田嶋村中、弓削嶋、大嶋、京都、備中、大坂、播州、丹後、廣嶋、廿日市重井村壹番組(一部)、を見る。重井村は一番組から五番組まであった。現在との関係は次のようになる。一番組:イ区、ロ区の丸山班。二番組:ロ区の山田・有浜班、ハ区、ニ区の須越・須越奥班。三番組:ニ区の上坂・薮の下、ホ区の一・二班、チ区。四番組:ヘ区。五番組:ト区、ホの三・四班。[p.59-61] 

 

3。白滝山・青木・馬神~重井周遊マップ   [p.62]

5月28日(土)に商工会議所主催のウォーキング大会があり、重井町内を歩いた。そのコースを元に重井周遊マップを作った。9時にスタートして、15時に帰った。昼食はフラワーセンターで食べた。コースは以下の通り。フラワーセンター駐車場、伝六ロード、大浜往還(古道)、白滝山、表参道、西洋館、フラワーセンター、青木道、青木城跡、明治橋、馬神新開、馬神城跡、北の浜、厳島神社、 伊手樋、天秀庵城跡、山の神社、須越樋口道、文化橋、フラワーセンター駐車場。

大出神社から上は私有地(畑)で道ではない。ここが通れるようになったら、地図に示したルートで周遊できる。その際青木道沿いの史跡は別ルートになる。青木道の史跡:裏門(長右衛門旧居)、青木金比羅神社、白滝山丁石(12丁)、青木道路改修碑、長右衛門顕彰碑、共同井戸、青木沖新開住吉神社、村四国、島四国など。     

 

4。村上水軍について その4  

釣島箱崎浦の戦いに勝った村上師清の子、吉豊を初代として6代吉充まで長崎城を本城として村上氏当主は180年間因島にいた。吉充は向島のほぼ全域を支配下におき、立花の余崎城に13年間本城を移した。その後、小早川隆景の三原移城に伴い、吉充は重井青木に築城して移った。永禄12年(1569)のことである。この時重井を支配していた杉原氏は生口島島へ移った。これにより因島全域がはじめて因島村上氏支配下に置かれたという。吉充は秀吉の海賊禁止令(天正16年、1588)に伴い隠居して鞆城に移った。さらに関ヶ原の敗戦後、長門の矢田間(豊浦町矢玉)に移るが、備後、弓削を経て大洲亀田に3年、のち野間佐方村(菊間町)へ移り、そこで生涯を閉じた。吉充隠居後は弟亮康の子吉亮(慶長元年没、廟所金蓮寺)を7代、その子元充が8代として因島村上家を守った。青木城は3代32年間である。江戸時代は三田尻長州藩船手組として勤め、給地は屋代島三浦(大島町三浦)で、防府牟礼村極楽寺を菩提所とする。

従って因島村上氏因島時代は1377年から225年間であった。

江戸時代の因島は村上氏の子孫(長右衛門家など)や下臣たちの子孫(宮地家など)などを中心にして近世農村社会が作られていく。

 

5。釣島箱崎浦合戦史跡巡り      [p.63]

因島村上氏の時代は天授3年(1377)霜月15日の釣島箱崎浦の戦いに始まる。今回は土生の合戦史跡を中心に探訪する。島前城跡は現在因島図書館のあるところで今岡通任が支配した。屋敷跡は青陰山登山道の六松公園近くにあった。また、配下の大鳥氏は中庄茶臼山城城周辺に住んでいた。村上師清軍と今岡・大鳥軍の戦いであり、釣島箱崎浦の戦いの跡を示す史跡標が、湊大橋にあるGSの北側の公園にある。西に見える島が釣島。現在鶴島と呼ばれる。稲荷神社の赤い鳥居が見える。鶴島の北が竹島で亀島とも呼ばれる。鶴島の西が平内島である。島前には因島開発名主上原(かんのはら)祐信の土居館があった。上原氏の持仏堂が長源寺で後に因島村上氏菩提寺となる。しかし天正5年(1577)に焼失し、江戸時代に中庄に移転し長福寺となる。守護神が耳明(みみご・耳護)社である。現在は大山神社にある。

耳明神社の隣に藤原泰衡の碑があり、巻幡氏の祖とされる。その碑と巻幡氏の先祖碑は対潮院にある。大山神社にはまた鍛冶神社がある。鍛冶神社は串畑から移った。

青影落葉之神は今岡通任の墓と伝える。妙泰神社は中庄茶臼山城主大鳥義康の弟宗義の夫人が妙泰夫人で城主義康の影武者として戦ったが、土生越えで討たれた。そこの地に後に妙泰神社が建てられた。女性の願いごとは何でもかなえられるという人気のある神社で島内にも何箇所か分祀があると言われるが、確認できたのは三庄の一社のみ。土生越えのこの峠を妙泰越えという。字「明体」と地図に見える。城主の子供たちは三子松(みこまつ)で討たれた。

串畑は翌年「天授四年」銘の刀を三原の刀匠を招いて造らせたところで、加冶屋谷という。田熊側の字は「鍛冶後」で「鍛冶ヶ後」とも書くから「鍛冶ヶ背戸」と呼ばれているところだろう。ここにあった鍛冶神社が大山神社に今はある。

対潮院は稲井家下屋敷対潮閣であった。(、を。に改めた)村上水軍は慶長五年関ヶ原別動隊で伊予松前城攻めを行った。この時稲井家当主、伯耆守治憲は多くの家臣達の外父家治・弟宮地忠明・長男村上重治の三人を同時に失った。このため対潮閣をこれら戦歿者を弔ふための仏院となしたものであろう。 この仏院とした稲井邸対潮閣を明峯恵三和尚が中興開山となって慶長十三年対潮院として再興した。

(稲井幸晴「稲井家」、昭和59年、p.324)

なお、重井の藤井氏は橋本屋、次いで茂平屋を祖とするが、茂平屋の先祖は土生村大西屋嘉平太と伝える。土生の墓所巡りの参考にしていただきたい。

 

6。土生町 対潮院境内 西国三十三観音霊場    住原俊治     [p.64-65]

 

7。道元禅師へのアプローチ その4「正法眼蔵」〈仏性〉より

尽界はすべて客塵(かくぢん)なし、直下(ちょくか)さらに第二人あらず、・・・悉有(しつう)それ透体脱落(とうたいとつらく)なり。〈仏性〉(岩波文庫正法眼蔵(一)」p.74) 

 道元禅師の主著「正法眼蔵」の第三仏性は長い章である。冒頭の、釈迦牟尼仏言、一切衆生、悉有仏性。如来常住、無有変易」への道元の立場を説く。世界そのもが主体であり、対象物は二つとない。主体と客体がある、というのではない。主体だけであるというのである。それゆえ、存在そのものが仏性であり、悉有(ことごとく有る)ことを会得しており、それは全身解脱である。

 

8。弘法大師空海へのアプローチ その4 入唐のこと2 [p.66]

 前回、遣唐使船の福州漂着における嘆願書を空海の語学の天才ぶりを示すものとして紹介したが、これを松本清張さんなら、もっと冷ややかに見る。吉川弘文館の「国史大辞典5 付録」の「遣唐使余話」の一部を載せる。

 

9。柏原達象氏(1884.6.23-1955.9.26)とダバオの柏原旅館 [p.67-68]

  ダバオの柏原達象氏については、かつて重井小学校が木造校舎の頃、階段の壁に大きなワニの剥製が掛けられており、その箱の下に柏原達象氏寄贈と書かれてあったことを覚えている方は多いと思う。柏原達象氏は戦前、フィリピン、ミンダナオ島ダバオ市で柏原ホテルという、ダバオで最初にできたホテルを経営されていた。ダバオ国とも呼ばれ満州国と並ぶ戦前の日本の植民地で、主要産業は麻であった。ダバオ関係の書籍から柏原達象氏についての記述を紹介する。

 古川義三「ダバオ開拓記」より。

11.柏原達象氏 1884年明治17年)6月23日広島県御調郡重井村に生まる。海外発展を志し1903年明治36年)6月、西豪州プルームに渡り真珠貝採取に従事したが、前途の見込みが少ないので僅か半年にしてシンガポールに引き返し、1905年4月ボルネオを経てフィリピン群島ホロに上陸し、更にダバオに来て太田氏に会ったが、またコタバトに引き返し米人のボーイとなった。後バランで米軍のコール マスターを勤め、月給80比の中から貯えた多少の資金で、漸くやまと屋という雑貨店を独立経営した。

以下[p.67-68]へ続く。

 古川義三「ダバオ開拓記」(古川拓殖株式会社、昭和31年)p.199-200

[p.68]の下のKASHIWABARA HOTELの写真は、改造社編「日本地理大系 海外発展地篇 下巻」改造社、昭和六年、p.33に掲載されているものである。

 

 城田吉六「ダバオ移民の栄光と挫折」より。 

 妻と一才の長女を伴って、フィリピン群島へ旅立ったのは、一九三七年(昭和十二年)七月十九日だった。以上p.252、(中略)、以下p.256

 十日目の七月三十日、北野丸はダバオ港に着いた。船上での検疫がすんで上陸すると、ダバオ税関で簡単な入国試験があった。

 明治時代の日本の修身教科書をだし読みのテストがあった。なんのために入国するのか教育視察はいつまでするのか、いつ帰国するのか等聞かれた。

 通訳してくれた柏原氏が、ばかばかしい質問ですが真面目に答えて下さい。でないと入国を拒否される場合があるかも知れないと言われて真面目くさって答えた。日本移民をよほど知能の低い人間だと思ってか古い教科書を読ませたのであろうと思った。

 柏原氏経営の柏原ホテルに泊っていると、ミンタル日本人小学校の前田照之介先生が迎えに来てくれた。私が独身で渡航して来るものとダバオ日本人会は思っていたらしく、妻子連れであるのにびっくりした模様であった。

 前田先生は急いでキャンプの世話をするからホテルで一両日待てということであった。柏原ホテルの二日は言葉は通じないし、退屈で食事はナイフとフォーク、寝風呂に腰掛け便所馴れない様式で不便この上ないものであった。

 然しはじめて食べるマンゴの甘さはなんともいえない味であった。

田吉六「ダバオ移民の栄光と挫折」、長崎出版文化協会、昭和55年、p.252、256

 また、柏原達象氏のことは、『広島県移住史 通史編』p.471の辺りにも記載されている。

 

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