夕凪亭別館

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第5回 2016.9.20.(共催:因島白滝公園保勝会)

 ふるさとの歴史を学ぶ会

第5回

p.71-72] [p.89-90] [p.72-78] [p.79-81] [p.82] [p.83] [p.84-85] [p.86-87] [p.88] 

 

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壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録

 

 

 

 

1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

 6月の大雨で山門下の石垣が崩壊したため、一丁から表参道が通行止めとなっており、裏参道のみが通行可能である。 もともと裏参道は整備が十分になされていない上に急傾斜の所もあり、さらにこの度の大雨で表土が流れた所もあったので補修を必要とした。管理人、ヴォランティアの町民、区長会、保勝会などで応急的な補修を行っている。

 

2。白滝山について  その5 [p.73-81]

 今回は、柏原舒延著「霊峰白滝山の沿革」について、

(18)一観居士因縁記(天の巻)   「反省ノ泉」昭和44年8月1日発行 第202号(18)〜(23)

(19)一観居士因縁記解説      「反省ノ泉」昭和44年9月1日発行 第203号

(20)一観居士因縁記解説      「反省ノ泉」昭和44年10月1日発行 第204号

(21)一観居士因縁記解説      「反省ノ泉」昭和44年11月1日発行 第205号

(22)一観の功過自知録       「反省ノ泉」昭和44年12月1日発行 第206号 

(23)二二号迄のまとめ       「反省ノ泉」昭和45年1月1日発行 第207号 

の6回分を読む。[p.73-78]

 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の重井村壹番組(続き)、貳番組(一部)を見る。地区割の現在との関係は次のようになる。一番組:イ区、ロ区の丸山班。二番組:ロ区の山田・有浜班、ハ区、ニ区の須越・須越奥班。[p.79-81] 

[p.81]原本p.84の六部了心は大師堂にある六十六部廻国供養塔の願主である。廻国供養塔は因島に9基あり、重井には3基ある。その1つである。

 

3。村上水軍について その5  [p.82

    松浦儀作「因島村上と青影城址因島市青影観光会、昭和三十三年、p.26の「因島に残る村上氏」は、古いものなので現状とは合わなくなっている面もあると思われるが、参考までに載せた。また、因島村上氏についてもその後の研究で表記の異なるものがあるので注意が必要である。青影城は第一家老救井氏の居城と考えられている。大浜の村上丹後守吉房は四代吉直の弟である。補足すれば、中庄平木祖主殿は助道のこと。大田熊祖直吉は六代吉充の弟敬吉の子。 

 

4。中庄茶臼山城跡周辺史跡巡り      地図 住原俊治 作成 [p.83]

 天授3年(1377)霜月15日の釣島箱崎浦の戦いは島前城の今岡氏と中庄茶臼山城の大鳥氏が、村上師清と戦って負けた。茶臼山城の周辺の史跡を探訪する。

 

茶臼山城跡 石名松浦氏先祖碑、小林氏先祖碑

 茶臼山城は大鳥義直の居城で、城主は大鳥義康である。中世には城主は麓の館に住んだ。すなわち土居形式(砦を兼ねた住居)から砦が独立したものと考えてよいのだろう。義康の弟が宗義で、その夫人が妙泰夫人である。標高126mの頂上付近が本丸、現在の登り口の鉄塔のある辺りが二ノ丸、本丸方向へ行かず右手の一段下がったところを南東へ進むと三ノ丸。かつて三ノ丸への登り道があり、そこに茶臼神社と松浦氏先祖碑があったものと思われる。松浦氏先祖碑は現在地へ移された。大鳥氏の子孫が中庄松浦氏である。石名松浦氏と呼ばれ、後に分家して蒲田松浦氏と徳永松浦氏に分かれた。石名松浦氏の先祖碑は中須賀池の消防署西にある。蒲田松浦氏徳永松浦氏の先祖碑はそれぞれ荒神社の少し東、島四国21番大龍寺境内にあり、別個に先祖祭りが行われているとのことである。石名松浦氏先祖碑の隣に小林氏先祖碑がある。

徳居屋敷(田頭家住宅)

 茶臼山の東麓に江戸時代の武家屋敷の面影を留めていると言われる徳居屋敷がある。中庄田頭氏の祖である田頭氏が弓削から移って、この地を買ったとき、有名な家なので屋号として残すことにしたというエピソードが伝わっている。田頭氏の先祖は承元年間(1207頃)に弓削に来て多賀城を築いた宇多源次兵衞明利を祖とする。二代目で田頭と改正。三代から6代にわたって河野家に従った武門であったが、八代が慶長3年(1598)に没した後、九代が武家を廃しその子茂兵衞満辰が両親と共に中庄へ来た。(参考:「弓削町誌」p.119) 

菅原神社 祭神:菅原神。貞亨2年(1685)に柏原吉助元祖権右ヱ門と田頭幸吉中祖茂平が太宰府より勧請。

不二庵(権現不動堂) 徳屋田頭家が創建。

●権現下池 広さ793㎡、満水時水深5.4m。

隠島神社、権現廃寺

 因島に関する記録で文献上最も古いのは、「三代実録」の元慶2年戊戌(878)12月の条の15日にある「○十五日丙子、授備後國無位隠嶋神従五位下

(十五日丙子、備後の國無位隠嶋神に従五位下を授く)」佐伯有義編、「六国史. 巻10 (三代実録巻下)」、朝日新聞社昭和16年、p.156の記述である。隠嶋が因島のことであるとすれば、であるが。「隠嶋神」と伝える神社が、多数ある。この隠島神社、重井大疫神社(祇園さん)、大浜齋島神社、外浦住吉神社などである。

中古社殿大破ニオヨビ后マタ大雨ニ社地を損ジ大鳥居石燈手洗鉢流沙ニ埋リ民力ニ不堪欠シテ遂ニソノ敗スルニ及ンデ該地モ民友ニ属ス然レド祭神ハソノ地ニ小社ヲ再建シ其ママ鎮座アリ元禄年間ニ大雨アリテ社地谷筋ニ押流シソノ際大鳥居笠石並ニ高サ四尺余広サ弐間ノ大石先洗鉢アラワル御調郡庶務役小林又兵衞正完ノ指揮ニ拠入所致シ埋隠シ畑地ニ修繕ス其ノ土地現今村上仏次郎所有ニシテ字権現二千八百九十番地ナリ其手洗鉢ニ隠島宮トアリシ旨土人古老ノ口碑ニ存ス」(森本八郎「中庄村史」p.49)     [p.89]へ続く。

 またここは、権現廃寺跡である。

現在その一角に隠島神社の小祠が建っており当時の神宮寺と思われる。第二次世界大戦の中頃、農耕中に瓦、土器、古銭など出土したが散逸し、現在瓦数点を残すのみである。これらは平安時代後期のものと結論づけられ市の重要文化財に指定されている。降って、平成三年八月再確認のため、試し掘を実施したところ、巾五十センチ、長さ五メートルの基壇の一部を発見し、また、瓦、土器などの破片七十点余りが出土し、寺跡があったことを裏付けることが出来た。田中稔因島史考」p.103 

赤雲神社 祭神:須佐之男神。明暦元年(1655)1月27日夜、権防山に赤雲の中に光が出たので、所有者の松浦(藤原)義光が翌日その近くの松の古木に注連縄を引き社殿を創設した。6月28日義光が出雲須佐之男神社より勧請。

 

5。中庄の「村四国八十八か所」   住原俊治     [p.84-85]

 

6。道元禅師へのアプローチ その5「正法眼蔵」〈即心是仏〉より

「即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。」「いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。」

〈即心是仏〉(岩波文庫正法眼蔵(一)」p.148)

四国遍路が発心の道場、・・修行・菩提・涅槃の道場と四つの道に分かれている。菩提薩埵の略が菩薩で悟りを求める人という意味である。

 

7。弘法大師空海へのアプローチ その5 「三教指帰」について 

 弘法大師空海が若い頃書いた「三教指帰」(さんごうしいき)はその序文に「阿波の国の大滝岳によじのぼり、土佐の国の室戸崎で一心不乱に修行した」(p.255)ことが書かれてあり、有名であるが、儒教道教、仏教の比較論をしたものである。結論は「かの周公・孔子儒教老子荘子道教などは、なんと一面的で浅薄であることか」(p.291)と登場人物に言わせ、「出家することこそ最上の道」(p.292)としている。引用は中央公論社「日本名著3最澄空海」の福永光司口語訳による。

 

8。柏原米太郎氏 [p.86-87]

 柏原米太郎氏は重井では「台湾米」と呼ばれた台湾の実業家で、須越と上坂の間にある荒神社に柏原神社を建て、「柏原土廟記」を出版した。柏原米太郎氏に関する資料を集めてみた。

 柏原充正、「重井の電話史談」、昭和58年、p.92

   橋本白水「台湾統治と其功労者」南国出版協会(台北)、昭和5年、p.130

 田丸實太郎、「因島案内」、因島案内社、大正八年、p.73

 また、台湾の公文書の記録として以下のものがあった。

臺灣總督府及所屬官署職員錄》274

柏原米太郎 本籍:廣島 昭和三年 臺北州基隆市協議會員 市協議會員

基隆港移出米取扱ニ就テ 1927/ 柏原米太郎著 国立台湾大学蔵書目録

 

臺灣總督府專賣局檔案(大正十一年會計永久保存第九冊)

米酒一斗甕運送契約(新竹分工場、埔里工場、恆春工場、宜蘭工場、花蓮港工場、旗山工場、臺東工場) 柏原米太郎 

 

臺灣總督府府報資料

木杯及褒狀下賜(大阪商船株式會社基隆支店等捐獻金錢或物品或土地,故賜給木杯或褒狀)大正2年06月07日(19130607)

合資會社商船荷捌組基隆支店 、 小川直馬 、 柏原米太郎 、 田中庄吉 、 高田庄次郎 

 

木杯及褒狀下賜(大正6年6月23日木杯及褒狀頒賜名單,共193名)大正6年06月24日(19170624)基隆輕鐵株式會社 、 柏原米太郎 、 小松利三郎 

 

木杯及褒狀下賜又ハ贈與(內藤久寬等人捐獻罹災救恤金,故賜給木杯或褒狀)大正2年05月09日(19130509)柏原米太郎

 

臺灣總督府

柏原米太郎船舶國籍證書書換交付ノ件(基隆廳)1908-01-01(明治41年)

1907-1920 年各廳幼稚園入園資格及經費來源概況表  單位:日圓 

基隆幼稚園  3 歲到上小 學之前 設立者負擔。不足時由小松任三郎、小松利三郎、柏原米太郎、水野新十郎等人負擔。

 なお、吉田寅太郎著「續財界人の橫顏」經濟春秋社(臺北市)1933の頁241-244に「ヘョで鳴した、柏原米太郎君」というのがあるが未見。

9。重井小学校鼓笛隊の創設について  柏原 裕  [p.88]

 

 

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