夕凪亭別館

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第7回 2016.11.15.(共催:因島白滝公園保勝会)

いんのしまみち しげいみち おおはまみち なかのしょうみち とのうらみち かがみうらみち むくのうらみち みつのしょうみち はぶみち たくまみち 日本のみち

第7回20161115

p.111-112]  [p.125-126]  [p.113-116]  [p.117-118]  [p.119]  [p.120-121]  [p.122-123]  [p.124

第7回20161115

レジメ[p.111-112]  [p.125-126

1。白滝山の現状について                  [p.111-112] 

2。白滝山について  その7            [p.113-116][p.117-118

3。村上水軍について その7                                              [p.111-112] 

4。土生史跡巡り                                       [p.119]

5。江戸時代の物価   住原俊治                                    [p.120-121]

6。道元禅師へのアプローチ その7  修証義               p.111-112

7。弘法大師空海へのアプローチ その7  空海と水銀 [p.125-126

8。干拓について その2               [p.122-123]

9。小学校史 その2                    [p.124]

 

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壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録)

 

1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

 10月29日、30日、重井公民館で行われた町民文化祭で、十大弟子修復工事の様子などの映像をDVD放映した。 

 11月6日の中国新聞、ちゅーピー子ども新聞に掲載された。11月5日の瀬戸内タイムズに写真コンテストの概要が掲載された。11月中旬尾道ケーブルテレビの取材予定。

 

2。白滝山について  その7 [p.113-118]

 今回は、柏原舒延著「霊峯白滝山の沿革」については、

(30)一観信仰関係記述一六冊同記録一○○通所在

              「反省ノ泉」昭和45年9月1日発行 第215号

(31)一観本州に伝道        「反省ノ泉」昭和45年10月1日発行 第216号

(32)一観本州に伝道(続)    「反省ノ泉」 昭和45年11月1日発行 第217号

(33)山陰伝道名残り        「反省ノ泉」昭和45年12月1日発行 第218号 

の4回分を読む。[p.113-116]

 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の重井村貳番組(一部)、三番組、四番組(一部)を見る。現在との関係は次のようになる。二番組:ロ区の山田・有浜班、ハ区、ニ区の須越・須越奥班。三番組:ニ区の上坂・薮の下、ホ区の一・ニ班、チ区。四番組:ヘ区。[p.117-118] 

 

3。村上水軍について その7  

    因島村上氏の五家老が島内各所に住んだ。青陰城、第1家老救井氏。土生小丸山城、第2家老稲井氏。重井馬神城、第3家老末永氏。中庄大江城、第4家老宮地氏。三庄土居城、第5家老南氏。

 

4。土生史跡巡り [p.119]         

 天授3年(1377)霜月15日の釣島箱崎浦の戦いに勝った村上師清はその子吉豊を現在ナティーク城山のある小島に住ませた。因島村上氏の来島である。以来、180年間6代にわたって、この長崎城を本城とした。その後、向島余崎城に13年間本城を移し、さらに永禄12年(1569)重井青木城に移った。今回は長崎城跡の関連史跡を巡る。併せて周辺の史跡も探訪する。

鯖大師 大正10年5月、村井才吉氏が自宅に建てる。昭和33年3月因島病院前へ移し、さらに昭和52年現在地へ移築。30トン。

111

大岩大神 第二公園と第三公園の間にある。

島四国45番岩屋寺 本四国は久万高原町にあり、少し登ったところの大岩に接して建つ。それに倣ってここも周辺に巨岩が多く、明治45年に村井才吉氏寄進の弘法大師像と不動明王座像の大磨崖仏がある。

島四国番外札所高野山奥の院 結願所。隣に水子地蔵がある。近くに五重塔、千手観音磨崖仏など。

最上稲荷分室 岡山市高松稲荷を勧請したもの。

聖天堂 大聖歓喜天で、聖天様と呼ばれている。石鎚神社併祀。

菅生山大宝寺 真言宗醍醐寺派。島四国44番大寶寺がある。供養塔。

荒神山城跡 長崎城の控えの要害。天狗山へ続く。居住地としても重要な位置である。荒神社(祭神須佐之男命)、城山神社(祭神大山積神)、金の神社などがある。大宝寺墓地の上には空堀の跡らしきものが見られる。

長崎城跡 かつて城山クラブがあったところで、現在ナティーク城山となっている。海に面した丘であるが当時は小島だったと推定される。因島村上氏は180年間6代にわたって、ここを本城とした。岩礁にはピット(係船用杭穴)があったが、現在はわからない。また、船隠しがあった。城山神社(祭神大山積神)がかつてあった。

弓場馬場跡 弓場医院の駐車場に説明板がある。大宝寺の墓地から見ると、この辺りが海岸線だったことがよくわかる。

島四国46番浄瑠璃寺 弓場馬場跡近くがよく見える。お堂の中の地蔵は願掛した後、持ち上がれば叶うという面白い縁起がある。また近くにはお大師水(高野山の杖の水)があり、手を洗うと幸運がつかめると言われている。

 

5。江戸時代の物価   住原俊治 [p.120-121]

 

6。道元禅師へのアプローチ その7  修証義

 曹洞宗のお経である修証義は道元禅師の主著「正法眼蔵」を元に明治23年に編集されたものである。今回は第一章 総序(第一節)を見よう。

   生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁(いんねん)なり。

これは「正法眼蔵」の「諸悪莫作」にでてくる。その前後の現代語訳は次のようになる。

 三歳の子供は、仏法を口にする資格はないと思ったり、また、三歳の子供のいうことはわけもないと思うことは、至って愚かなことである。その理由は、生を明らかにし、死を明らかにすることが、仏道の一大因縁(もっとも大切なこと)だからである。玉樹康四郎「日本の名著7・道元」(中央公論社)p.173

 

[p.125]へ続く。

112

7。弘法大師空海へのアプローチ その7  空海と水銀 

 「今昔物語」第11巻第25話「弘法大師、始建高野山語」に、空海高野山へ入る時、2匹の犬を連れた狩の人に導かれ、「丹生ノ明神」に出会うという話がある。そしてこの犬飼が「高野ノ明神」であった。この話は丹生都比売神社と高野明神の由緒でもあるが、空海と土地所有者との関係をも示唆する。

 丹とは辰砂のことで加熱すれば水銀が得られる。そして丹生、あるいはそれから派生した地名は丹生族が採掘した古代の水銀産地であり、丹生族が祀った神が丹生都比売であるから、この説話は高野山開基に当たって丹生族の協力があったことがわかる。参考:松田壽男「丹生の研究」(早稲田大学出版会)、新日本古典文学大系「今昔物語三」(岩波書店)p.70

 

8。干拓について その2 [p.122-123]

 前回小学校の副読本を読んだので、今回は中学校の副読本を見てみよう。中島忠由先生が重井中学校で昭和25年に書かれた「義農五代の苦心 村上長右衛門傳」のp.4からp.7の抜粋である。

 

9。小学校史 その2   [p.124]

 明治5年の「学制」に始まった公教育としての小学校は、明治12年(1979)の「教育令」で見直されるので、この期間が「学制の時代」と呼ばれる。明治5年という国家としても模索の時代であったのだから、教育の場においてはそれ以上に、試行錯誤に満ちていた時代だと想像される。

 この間の重井のようすを見てみよう。

明治6年(1873)10月 善興寺内に振徳学舎を設置する。教師、沼田良蔵。大師堂に信誠舎を設置する。明治6年10月~明治10年2月の間使用された善興寺内の振徳学舎は教員室4坪、教室32坪、便所2坪。総計38坪。[p.124]

明治8年(1875)8月 振徳学舎を重井小学校と改称。就業年限4ヶ年程度。信誠舎を大師堂分教場と改称。細島に分教場設置。就業年限3ヶ年程度。 

明治10年(1877)2月  山の神に校舎を新築し5月に移る。教室34坪、土間5坪。大師堂分教場を廃す。

 

この間の関連法案の一部を記す。 

明治5年(1872)

学制(明治五年八月三日文部省布達第十三・十四号)

第二百十四号 今般文部省に於て学制を定め追々教則をも改正し布告に及ぶべきにつき自今(じこん・いまより)以後一般の人民華士族農工商及女子必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す。人の父兄たるもの宜しく此意を体認し其愛育の情を厚くし其子弟をして必ず学に従事せしめざるべからざるものなり。高上の学に至ては其の人の材能に任すといえども幼童の子弟は男女の別なく小学に従事せしめざる

125

ものは其父兄の越度たるべき事。右之通被 仰出候条地方官ニ於テ辺隅小民ニ至ル迄不洩様便宜解釈ヲ加へ精細申諭文部省規則ニ随ヒ学問普及致候様方法ヲ設可施行事 明治五年壬申七月 太政官

明治五年八月三日文部省布達第十三号別冊

第二十一章 小学校ハ教育ノ初級ニシテ人民一般必ス学ハスンハアルヘカラサルモノトス之ヲ区分スレハ左ノ数種ニ別ツヘシ然トモ均ク之ヲ小学ト称ス即チ尋常小学女児小学村落小学貧人小学小学私塾幼稚小学ナリ

第二十七章 尋常小学ヲ分テ上下ニ等トス此ニ等ハ男女共必ス卒業スヘキモノトス教則別冊アリ

下等小学教科

 一綴字読並盤上習字 二習子字形ヲ主トス 三単語読 四会話読 五読本解意 六修身解意 七書牘解意並盤上習字 八文法解意 九算術九々数位加減乗除但洋法ヲ用フ 十養生法講義 十一地学大意 十二理学大意 十三体術 十四唱歌当分之ヲ欠ク 

 上等小学ノ教科ハ下等小学教科ノ上ニ左ノ条件ヲ加フ

 一史学大意 二幾何学罫画大意 三博物学大意 四化学大意

 其他ノ形情ニ因テハ学科ヲ拡張スル為メ左ノ四科ヲ糾酌シテ教ルコトアルヘシ

 一外国語学ノ一二 二記簿法 三画学 四天球学

 下等小学ハ六歳ヨリ九歳マテ上等小学ハ十歳ヨリ十三歳マテニ卒業セシムルヲ法則トス但事情ニヨリ一概ニ行ハレサル時ハ斟酌スルモ妨ケナシトス

 小学教則概表(明治五年十一月十日文部省布達番外) [p.124]

第四十章 小学教員ハ男女ヲ論セス年齢二十歳以上ニシテ師範学校卒業免状或ハ中学免状ヲ得シモノニ非サレハ其任ニ当ルコトヲ許サス

以上三章ハ其目的ヲ示ス数年ノ後ヲ待テ之ヲ行フヘシ後章ハ現今ノ位ニ応シテ之ヲ許スモノトス

第四十六章 小学校教員ハ男女ノ差別ナシ其才ニヨリ之ヲ用フヘシ

明治6年(1873) 

小学教則改正(抄)(明治六年五月十九日文部省布達第七十六号)

小学教則 第一章 小学ヲ分テ上下二等トス下等ハ六歳ヨリ九歳ニ止リ上等ハ十歳ヨリ十三歳ニ終リ上下合セテ在学八年トス

明治8年(1875)

小学学齢ヲ定ムル事(明治八年一月文部省布達第一号)

小学学齢ノ儀自今満六年ヨリ満十四年マテト相定候条此旨布達候事

 

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◉本会資料の一部をブログ「いんのしまみち」で公開しています。

◉次回、12月20日(火)10:00~11:00、重井公民館。11:30、ローソン重井店駐車場集合。向島余崎城跡、高見山、除虫菊神社、小可島城跡、岩子島厳島神社等。(昼食持参)(申し込み不要。一方だけの参加も可能です。)

 

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