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夕凪亭別館

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第8回 2016.12.20.(共催:因島白滝公園保勝会)

 

いんのしまみち しげいみち おおはまみち なかのしょうみち とのうらみち かがみうらみち むくのうらみち みつのしょうみち はぶみち たくまみち 日本のみち

ふるさとの歴史を学ぶ会 Vol.1 第1回資料 第2回資料 第3回資料 第4回資料 第5回資料 第6回資料 第7回資料 第8回資料 Vol.2 第9回資料 第10回資料  第11回資料 第12回資料

[p.127-128][p.141-142] [p.129-133[p.134-135][p.136-137][p.140]

壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録)

 

1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

 11月2日午前尾道ケーブルテレビの取材を受けた。11月26日東京・池袋サンシャインシティで「しま山100選」が公益財団法人日本離島センターによって発表され、白滝山が入った。この件はせとうちタイムズ12月10日号で報道された。12月4日、高松市塩江町NPO法人奥塩江交流ボランティア協会を9名で視察・交流会を行った。

 

2。白滝山について  その8 [p.129-135]

 今回は、柏原舒延著「霊峯白滝山の沿革」については、

(34)自二四号至三三号のまとめ 「反省ノ泉」昭和46年1月1日発行 第219号 

(35)縁日について       「反省ノ泉」昭和46年2月1日発行 第220号 

(36)白滝登山会(上)        「反省ノ泉」昭和46年3月1日発行 第221号

(37)白滝登山会(中)        「反省ノ泉」昭和46年5月1日発行 第222号

(38)白滝登山会(下)        「反省ノ泉」昭和46年6月1日発行 第223号

の5回分を読む。なお、35回から38回までは、番号に誤植がある。上記のようになる。[p.129-133]

 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の重井村四番組(一部)と五番組(一部)を見る。現在との関係は次のようになる。四番組:ヘ区。五番組:ト区、ホの三・四班。[p.134-135] 

 

2−2。 白滝山案内用「石柱」設置の経緯  村田幸治             [p.136-137]

「白滝山 五百羅漢」の石柱設置の経緯について因島白滝公園保勝会 前会長 村田幸治氏に寄稿していただいた。

 

3。村上水軍について その8  

    第1家老救井氏、第2家老稲井氏はそれぞれ新田義貞脇屋義助(義貞の弟)の子孫である。今回は稲井家の因島へ来るまでのことを記す。「太平記」巻第二十三に「義助伊州下向事」「義助朝臣病死事付鞆軍事」が見える。また、「予陽河野家譜」巻之三(p.120)には義貞の三男義宗と義助の息義治の予州下向のことが記されている。稲井幸晴「稲井家」p.251以下によると16代義助は15代朝氏の二男で新田義貞の弟である。新田庄脇屋村に住んだので脇屋と号した。本来ならば義助を初代と数えるべきであろうが、以下同書の代数のまま記す。上記太平記等に出る義助のことである。義助は暦応3年4月23日今治浦着、5月21日国府にて急死。伊予国

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分寺境外に埋葬。17代義治は明徳4年(1393)義宗とともに一族七十余人出羽羽黒山より伊予大島に来る。村上師清は手厚く遇した。応永12年(1405)8月7日死去。18代助盈 義治の二男。村上師清父子が義宗の三男、娘、それに助盈を預かり保護し、その他のものは得能家に蟄居された。義治父子の別れに際し、師清は助盈に大島稲井城を与えた。この時脇屋から稲井へと変えた。また後見役になったのが槇家である。師清の次女(実は養女)を室とした。稲井家初代ということになる。19代助富 応永34年(1427)播州赤松満祐の変で父助盈とともに因島村上氏1代吉豊に従った。その後、大島稲井城を村上一門に譲渡し、主従二百余人で因島へ来た。

 

4。向島史跡巡り    [p.138]     

  弘治3年(1557)因島村上氏6代吉充の時、向島余崎城に本城を移し、その後永禄12年(1569)重井青木城に移るまで13年間本城とした。今回は余崎城跡と周辺の史跡を巡る。以下は昭和13年発行の「向島岩子島史」による。

向島の最多姓は村上で、向島西村180戸、向島東村50戸、立花村26戸、岩子島11戸。因島村上一族あるいは臣下として移住した者の縁者であることが同族間の口碑に伝わる。津部田、道越に多い。木曽姓は木曽義仲の木曽である。義仲の三男三郎義重が川尻に隠棲し、後向島を支配した。義重の二男三男が留まった。新田姓は川尻に集中しているので、義重の臣下として留まった者の子孫が名乗ったと推定されている。p.107 したがって、因島村上氏と関連する新田党(救井氏、稲井氏)とは関係はない。

余崎城跡 岡島(小歌島)城を落とした褒賞として向島一円を小早川隆景から与えられた因島村上氏6代吉充が土生長崎城から移り、重井青木城へ移るまでの13年間支配した。 因島村上家文書20「向島一円の事、承る旨に任せて同心致し候、宇賀島一着の上を以て、御進退あるべく候」(隆景から吉充宛て)の宇賀島は岡島のこと。山内譲「中世の港と海賊」p.100

高見山 標高283m。余崎城の控えの要害とも考えられるが、その名が示すように見張り所だった。

三躰妙見宮。明現社、国津神社。正長元年村上吉豊が海岸の山峯に始めて奉祀してから立花村一般の氏神と号した。また、村上吉充が余崎城を築いた時、武運長久を祈願するため一社を建立し、国津神社と称したとも。 

岡島城跡 昭和5年ごろまでは周囲600メートルほどの島であったが、その後尾道港浚渫の土砂で島の南側を埋め立てた。頂部の民家の周辺には数段に削平された曲輪の跡がある。北側の岩礁上には数個の柱穴がある。「瀬戸田町史通史編」p.235

亀森八幡神社。西八幡神社。除虫菊神社 祭神は上山英一郎霊 昭和5年12月建立。重井一本松にある村上勘兵衛翁の詩碑はこの神社へのお礼参りの詩である。

賽除虫菊神社 塵外作 偉哉霊薬除虫菊 成就天慈地澤深 欲攘坤圓球上穢 發揚清浄自然心       [p.141]へ続く

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 他に村上吉充が永禄元年8月建立した旭神社(木曽義仲、義重を祀る)、村上吉充の死後、村上大炊助源照友が吉充を祀った村上神社などもある。(p.202)

岩子島厳島神社 岩子島浦浜。岩子島村社。海水浴場。美しい松林があった。

立花村 槇93戸、青木34戸、村上、瀬尾それぞれ二十数戸。藤原、吉田、桑原それ

ぞれ十余戸。祖先が村の開拓者であり其多数が因島より移住した。p.108

因島村上氏第二家老稲井氏の執事に槇(牧)家があり、貿易に従事した。稲井幸晴「稲井家」p.121 その槇家との関係は不明。

白石島 一大岩嶼で巌の半に洞門がある。此方より沖行船の帆を洞穴から見ると云ふ。p.430 長右衞門家6代知義の弟忠四郎(伊浜分家)藩主より拝領。

岩屋山 岩屋巨岩 大元神社 標高102mの岩屋山の東側に巨岩と西国三十三観音がある。三十三観音には左手に十字様仏具を持った石仏が多数ある。これらを見れば白滝山の「十字観音」という名称が不適切なことや、かつて話題になった隠れキリシタン説などが妄説に過ぎないことがわかる。また、岩屋山の北側には大元神社があり、さらに進むと尾道水道が見下ろせる。➡️岩屋巨石

 

5。岩子島 四国八十八か所霊場   住原俊治           [p.139]  

  ➡️岩子島八十八カ所

 

6。干拓について 3         [p.140]

 重井中学校の副読本中島忠由「義農五代の苦心 村上長右衛門傳」のp.7~9の抜粋である。

 

7。道元禅師へのアプローチ その8  生死

 修証義の第一章 総序(第一節)。生死(しようじ)の中に佛あれば生死なし。

  これは「正法眼蔵」の「92巻生死」にでてきて、以下のように続きます。

 生死の中に佛あれば、生死なし。またいはく、生死の中に佛なければ、生死にまどはず。こころは夾山(かっさん)・定山(じょうさん)といはれし、ふたりの禅師のことばなり。得道の人のことばなれば、さだめてむなしくまうけじ。

 これについて栗田勇道元の読み方」(祥伝社)には次のように書かれている。

 生死の中にもともと仏がある、すなわち絶対的な真実をつかんでいれば、すでに現世を超えているわけだから、今さら生きる死ぬということを迷うことはない。また、逆に、生も死もただそれだけの事実で、ことさら悟りや救いがあるわけのものではないと観念していれば、生だ死だと迷い疑うこともない。(p.242)

 

8。弘法大師空海へのアプローチ その8 奥の院伝説 

 高野山奥の院には弘法大師空海がまだ生きておられるという伝説がある。

 大師の住所は何処〻(どこどこ)ぞ、伝教慈覚は比叡の山、横河のご廟とか、智證大師は三井寺にな、弘法大師は高野の御山にまだ坐(おわ)します。『梁塵秘抄』295)

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 ありがたや 高野の山のいわかげに 大師はいまだおわしますなる   天台座主慈円

 あるいは今昔物語の「入定ノ峒ヲ開タリケレバ・・・御髪ハ一尺計生テ在シマシケレバ」とあるように、いろいろな伝説が伝わっている。

 これは伝説に過ぎないが、宗祖空海即身仏(ミイラ)としているわけだから、即身仏真言密教と関わりが深いことから、松田壽男氏は空海即身仏になる秘法を伝えたのではないかと推定する。それには水銀が重要な働きをする。空海は今流に言えば科学技術の最先端伝えた人だから、ありえないことではない。古代の水銀産地であった湯殿山では、約5年間の五穀(米、麦、稗、粟、豆)断ちを行う。さらに5年間十穀(+蕎麦、玉蜀黍、芋、胡麻、麻)断ちを行う。「この長い期間を過ぎると行者はいよいよ断食して入定を待つのであった。まことに常人には想像もできない難行ではないか。しかし行者は、これに堪えることによって体内の脂肪をぬき、同時に穀物の代替として摂取する野草や菜類から水銀を徐々に体内に蓄積していったと認められる。」(p.228)

参考:松田壽男「古代の朱」(ちくま学芸文庫)、新日本古典文学大系「今昔物語三」(岩波書店)p.72、

 

9。小学校史 その3

 明治5年から明治11年までの、いわゆる「学制」の時代についてみる。

 大浜村では、明治6年設置の養成舎を明治8年に大浜小学校と改称している。校舎は見性寺である。

 中庄村では、明治6年1月6日に小林敬哉宅に久敬舎、3月19日に成願寺に温和舎が創設。明治7年3月外浦に小学校設置。明治5年に鏡浦に開郷舎が設置。

 椋浦では明治5年3月金蔵寺内を借り受け校舎にあてて椋浦学校を設置。

 三庄村では明治8年8月1日に六行舎を創設した。

 土生村では明治6年3月1日に対潮院に土生学校を創立している。明治7年に中畝に移転し、2教室であった。 

 (明治5、6年における外浦、鏡浦、椋浦の町村名は不明)

 

10。トランペット鼓隊50周年記念誌制作委員会  事務局 柏原裕

 11月12日に第2回制作委員会が開かれ、各学年委員へ原稿の執筆並びに写真等の提供を依頼する担当者の分担を決めた。12月10日の第3回制作委員会では、学年委員の変更を含めて、ほぼ全学年及び関係者への依頼ができたことが報告された。

 

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◉本会資料の一部をブログ「いんのしまみち」で公開しています。

◉次回、1月17日(火)10:00~11:00、重井公民館。11:30フラワーセンター駐車場集合。大出神社、青木城跡(昼食)、八幡神社、フラワーセンター(部分解散、13時頃)、伝六ロード、大浜往還(古道)、白滝山、くんぐり道、フラワーセンター等。(昼食持参)(申し込み不要。一方だけの参加も可能です。)

 

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