夕凪亭別館

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1972年1月

Lost Days

1972年(昭和47年)                  

広島市宝町

                  

 

1972年1月1日。土曜日。

 6時に白滝山へ。

 

1972年1月2日。日曜日。

 12時起床。午後,夕刻と友人と歓談。

 深夜テレビで「宮本武蔵」見る。

 

1972年1月3日。月曜日。

 12時頃起床。

 夜,福山の人来る。8時入浴,9時頃寝る。

 

1972年1月4日。火曜日。

 10時36分,東港発にて広島に向かう。11時15分頃から,尾道で知人と会う。

 5時16分発,下り急行山陽2号で広島へ。

 9時から11時10分まで家庭教師。

 

1972年1月5日。水曜日。

 12時起床。

 パンク修理250円。丸善,古書店,いずみ等へ行く。3時から5時半家庭教師。

 

1972年1月6日。木曜日。

 夜,9時から家庭教師。

 

1972年1月7日。金曜日。

 9時から家庭教師。

 教学出版へ行って,添削の12月分(17000円)をもらう。

 3時30分頃弟が帰る。

 

1972年1月8日。土曜日。

 12時に起きる。

 8時50分から11時まで,家庭教師。

 

1972年1月9日。日曜日。

 11時に天満屋でO君と会う。一度下宿に帰り,1時頃から再び出て,昼食をとる。その後天満屋,福屋,古書店,ダイエー。たこ焼きを買う。帰って英語。

 

1972年1月10日。月曜日。

 法学A万葉集。そのあとすぐに帰る。9時から11時,家庭教師。

 

1972年1月11日。火曜日。雨。

 7時半頃起床。雨である。9時より家庭教師。

 

1972年1月23日。日曜日。

 芸術劇場。FM1010

1972年1月25日。火曜日。   

  「自由日記創作」に「陽光」と名付けてある。

 念願の日記帳をやっと買った。念願というほどのものでもない。いつでも買えたのに,その必用に迫られないものだから,つい長々と伸び伸びになって,今日に及んだ訳である。72年なのである。歴史は定まるところを知らず,絶えず変化する。それが本能だから仕方がないと言えば仕方のないことである。

 いつまで続くかわからない。いつまででもよい。たとえ三日目にはもう書かなくても。書こうという日々を楽しみ,また書けた日を尊びたい。

 西尾幹二氏の「個人であることの苦渋」(自由二月号)を読む。思っていたとおり,氏は認識の鋭い目で,何らかの示唆を与えないではいないようことを書いている。

「書くことのなくなった時代」だという。もう「社会の目が文学作品のようなものに注がれ」る時代は終焉しかけているという。それは確かに言える。実に時代を先取りした,他の批評家たちの気づかぬ鋭い指摘だ。だが,忘れてはならぬ。いかに書くものがなくなった時代になろうとも,文学とか芸術とかいうものに,全然目を向けないでは生きてゆけない人が,いなくなることはあるまい。作家という職業をもつ人は,何やかにやと書くものであり,大衆とはそれを読むものである。

 

1972年1月26日。水曜日。曇り。

 

 

1972年1月27日。木曜日。

 名古屋のS君より手紙。

 

1972年1月28日。金曜日。曇り。

 早いものだ。もう,一月も終わりに近づいた。昨夜,Oが,物理実験のレポート整理にやってきたので,今日はもう眠くてたまらない。

 家から送金がある。二月分の部屋代を払う。一月分の電気代が二千円を超えた。もっともなことである。別に驚かない。

 量子論について少し学習する。語学は,ほとんど進まない。

 早くも,日記帳というものに飽きがきたようである。-別に愁いとも思わない。すべて予期されていたことである。

   充実のない世界だ。

 何ら束縛のない世とは,かくも退屈なものだ。

 

1972年1月31日。月曜日。雨。

 起きると雨だった。しっとりとした空気と霞のような靄が,生きていることの神秘を感じさせる。

 芸術的創造のない世界が,何とはかない生であるかということは,真に偉大な芸術作品に触れてみないとわからないものかも知れない。

 読書をしてもそれを自分のものとして真に生かすとは,どういうことであろうか。難しいことだ。書くことのない現代社会という人もいるかも知れぬが,書くもののなくなる世界などというものはあり得ない。

   

 西尾幹二「ヨーロッパの個人主義」(講談社現代新書)では,進歩は善に結びつかないと述べている。階級制というものが社会の秩序を保っていると書いてある。一面の真理である。なるほどそうである。民主主義もまた不完全なものであり,歴史の生んだ奇形児の一種に他ならない。しかし,人間は,現状に留まることを知らぬ。夢でも幻でもよい。何か理想のようなものに向かって,歩みを続けるのが人間というものだ。たとえ,様々な悪弊をもたらそうとも,進歩という名のもとに,未来へ,未来へと,たゆまぬ前進を続けるのが歴史の習性である。

 確かに,進歩というものを軽蔑することによって,静かに人間というものを眺めて見ることが必用であろう。真に人間的とは何であるかと問い返してみることも必用であろう。しかし,それだからといって,反進歩的になったりするのはおかしい。それは保守という俗悪な宗教の化身に他ならない。真の言葉の意味での保守である。

   

 西尾幹二氏は,現代は書くべきことのない時代といったが,確かにその通りである。たとえば,僕にとっても,日記すら書く必用のない日の方が多い。何ら書く必用がないのである。あまりに機械化された日常の中で,何で書く必用があろうか。その日のタイムテーブルに従って,一日を送っただけである。別にいつもより,変わったところに行ったという訳ではない。変わった体験をしたというわけではない。毎日,同じような行動をとり,同じような感動しか,僕はもつことはできないのか。Lost Days

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