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夕凪亭別館

本館 http://hb8.seikyou.ne.jp/home/crystal/index.htm        博物誌インデックスhttp://hb8.seikyou.ne.jp/home/crystal/Naturalis/Naturalis001.htm        植物誌インデックス http://hb8.seikyou.ne.jp/home/crystal/plants/plant001.htm

公民館から一本松まで

白滝山研究目次 白滝山リンク集  夕凪亭本館  本館2 いんのしまみち しげいみち

はじめに

本日はわざわざお集りいただきましてありがとうございます。皆様にお話するほと特別なことをしているわけではありませんが、いつも観音さんに登ってはいろいろお世話になっている峯松さんの企画ですので、私にできるお手伝いはできるだけやらせてもらいたいと思っております。

また、こうして皆さんとお話しすれば私の思い違いや、知らなかったことを教えていただけるものと期待しております。例えば、字(あざ)などとはどうしてもどこからどこまでというのは、そこに住んでおられる方が、うちまでが、砂原で、隣りから小林になる、というように教えていただくのが一番です。こういうようにいろいろと教えてもらえるのではないかと思っておりますので、よろしくお願いします。

ということで、ご一緒に重井の歴史とともに学んでいけたらよいかなと思っておりま。

そして、それは本企画のねらいにあるように、子どもたちに白滝山のことを知ってもらいたいわけですから、あわせて重井の歴史も伝えたいわけです。

歴史といってもかた苦しいものではなく、皆さんがおじいさんおばあさん、ご近所の方から聞かれたことでよいのです。それを次の世代に伝えたり、記録に残しておくことが大切だと思います

とはいえ、白滝山の勉強会ということでございますから、そこも踏み外さないようにしないといけません。

 

 

伝六ロード

伝六ロードが歴史的にも新しいところですから、さっそく、伝六ロードのことを話題にしてみましょう。

 

今日は、1回目ということですので、あまり細部にこだわらずに大雑把に話してみましょう。

 

今年(1915)の3月15日に文化財協会の主催でウオーキングが行われました。

私も参加させてもらいたかったのですが、実は3月15日は伝六さんの命日で、かつては春の観音参りが行われていた日です。

観音参りというのは白滝山の縁日です。

これは年4回ありました。もちろん旧暦ですが。

1月17日が初観音

3月15日が命日で春の観音参り

7月8日が千日参り

11月6日が浄土日と言って、伝六さん悟達の日です。

私らが子どもの頃は観音参りが年に二回あって、いか焼きやら綿菓子屋やら、多くの露天商の方が集まって随分にぎやかたったことを覚えておられる方もいらっしゃると思います。

おそらく、新暦に直して、3月15日が春の観音参り、11月6日が秋の観音参りだったのだと思います。

それで、今年の1月から、縁日の復活を目指してフリーマーケットをやることにしまして、3月15日の予定は瀬戸内タイムズさんが乗せてくれておりましたから、変更できなかったわけです。

ですから、そのコースを想像するだけです、し説明がなされたことと思いますが、ある気歩きの説明はうしろのほうの方は聞こえませんし、また参加されていないかたもおられることでしょうから、ちょっと振り返ってみましょう。

重井公民館集合出発ということです。

この上の道を通ります。

この道は上道と呼んでましたが、須越樋口道路ですね。

その道路改修碑は公民館の中庭にあり

自須越至樋口とありますから、三笠堂から一貫堂前の交差点まででしょう。

一貫堂の先は大小路と南小路ですから、ここで名前が変わるわけです。下道のほうは大正橋までが砂原小林道路ですね。砂原と小橋の境は丸高商店さんの前あたりでしょうか。

こういうように古い名前は地元の人がどう呼んでいるかということと、多くの人が一言でイメージできるのがよいわけです。

大小路南小路というのは中世市場の名残です。

すなわち6代村上吉充が青木城主となり、重井に来る。東の武者街に対して西の市場街を作って、大疫神社すなわち祇園さんをその市場の守り神としました。

それから「ます屋酒店」というのがありますが、枡を売るというのは、非常に大切なことで、そこが市場の支配人、頭取ということになるのでしょう。ですから、「ますや」さんが、これが1升と決めると、それが重井の一升ということになるのです。

すこし話が脱線したようですが、実はこの時代から白滝山の歴史が残っているのです。すなわち、村上吉充が、青木城跡として重井に来て、いろいろと整備をしたとき、東の特に燧灘の見張り所として、観音堂を建てたということです。堂守が常楽院静金ということもよく書かれております。なぜ、砦でなくて観音堂にしたかという疑問は残ります。ここは、山伏だったのではないかと、言うだけに留めておきましょう。また、砦、あるいは山城だと考えてもよいかと思います。

さて、須越樋口道を東へ向かって歩きましょう。まずお寺の入り口に、地蔵さんがあります。

お寺の入り口には村四国の 番 です。

その向うに真新しい羅漢像があって、さらにその向こうに仁王像がと・・話し出すときりがありませんから、ひとつだけ。

ここはお寺の名前、善興寺が村上水軍の故郷信濃善光寺、あの牛に曵かれて善光寺参りの善光寺と同音の名前にしたという話があります。笑いばなしだと思って忘れて下さい。