能島来島因島由来記
だいたい野島を中心にして、因島のこともかなり詳細に出ており、巻末の追記によれば、慶長九年(一六〇四)の著、天和三年(一六一七)、元禄三年(一六九〇)追補としてあるので、信のおけるものではないかと思うが、その文章、編集のやりかたは、まことに稚拙きわまりないものであり、時代的にいえば、戦国末期の状態を主としたもののようであるから、これも時代に応じたところに、追記しておこう。
なお、右の記録によってみると、因島村上の勢力は、かなり広い範囲にわたっている。讃岐塩飽から、備前児島にまでわたっているから、塩飽から備中海岸までも、一円の支配を行なっていたようであるが、「萩藩閥閲録」のなかには、それらの氏名のほとんどが登録されていない。戦闘のために倒れた家もあったろうが、秀吉の刀刈りで、ほとんど帰農したのではあるまいか、それと前後して宮地も帰農しているし、小林系図のなかには俊輝というのが出て来ないから、小林氏もまた、このころ帰農したのかもわからない。青木茂「因島市史」p.368
松岡進「瀬戸内水軍史」p.476