夕凪亭別館

本館 http://hb8.seikyou.ne.jp/home/crystal/index.htm        博物誌インデックスhttp://hb8.seikyou.ne.jp/home/crystal/Naturalis/Naturalis001.htm        植物誌インデックス http://hb8.seikyou.ne.jp/home/crystal/plants/plant001.htm

除虫菊のページ

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除虫菊畑(尾道市因島重井町馬神)    

除虫菊石碑

広島県尾道市因島重井町  因島フラワーセンター 入口付近にあります。

因島除虫菊の父

広島県尾道市因島重井町一本松 中島菓子店の前 松のある広場の北側にあります。    

さらにその左隣りに詩碑があります。

村上勘兵衛翁詩碑

                                             

                                                                                           

リンク集

   しまなみ人インタビュー (村上富夫さん)   しまなみ人インタビュー (村上安弘さん)

   因島フラワーセンター (種の配布もあります)

   尾道市のホームページ

   大日本除虫菊株式会社(キンチョー) (会社案内の金鳥の歴史、あゆみ)

   フマキラー株式会社

 

参考文献など

 昼田栄編「広島県農業発達史 第四卷」(広島県信用農業協同組合連合会,昭和50年) p.369-562

 網野善彦等監修 日本民俗写真大系④ 瀬戸内海の東西(日本図書センター,1999,p.2) 中村昭夫氏の撮影された1961年の尾道市因島重井町(中学校付近)のカラー写真があります。  

 国立国会図書館近代デジタルライブラリー (除虫菊と入れて検索してみてください)

 北川建次他編「瀬戸内海事典」(南々社、2007)p.367-368に神田三亀男氏による解説。

 中国新聞社編「瀬戸内海 下巻」(中国新聞社、昭和35年)、p.118-123

 村上勘兵衛「米寿記念詩抄」(村上塵外詩抄刊行会,昭和44年)

  吉村昭「事物のはじまりの物語」(ちくまプリマー新書,2005),p.97-109 

 

 

 

除虫菊関係人物誌

 上山英一郎

 和歌山県の人。我が国除虫菊栽培普及の功労者。大日本除虫菊株式会社(キンチョー)の創業者。 

 尾道市千光寺境内に頌徳碑がある。

 向島除虫菊神社がある。

 

 村上勘兵衛

 広島県尾道市因島重井町の人。重井町除虫菊栽培普及の功労者。

 尾道市因島重井町 一本松 中島菓子店の前に頌徳碑がある。因島除虫菊の父  村上勘兵衛翁詩碑

略歴(「米寿記念詩抄」より抜粋)

 明治15年3月1日広島県御調郡重井村に生れる

 明治36年3月広島県師範学校卒業

 明治36年4月~明治41年9月小学校教員

 明治43年12月~大正4年12月重井村収入役 

 

 

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ロスコー・ノートm

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ロスコー Roscoe, H.E.についての覚え書きです。

Henry Enfield Roscoe 1833-1915はイギリスの化学者で、明治以降の我が国の小学校(学年では現在の中学校に相当)における最初の化学教科書の著者です。

 

基礎資料

ノート(1) ロスコーの生涯

ノート(2) ロスコーの著作  

ノート(3) ロスコーの翻訳 

ノート(4) 参考文献  (当時の教育制度を含む)

 

課題

なぜロスコーの著作が選ばれたのか?

ロスコーの著作の特色は何か?

ロスコーの翻訳教科書の功罪、および評価。

翻訳書と原典との対応。

 

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生活単元理科ノート

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生活単元理科とは? *1  

生活単元理科の時代 *1    

生活単元理科の起源 *1 

生活単元理科への批判 *1

高等学校における生活単元理科*1 

生活単元理科と高等学校化学 *2

生活単元理科とデューイの教育思想 

カリキュラム論から見た生活単元理科 

昭和二十二年度 学習指導要領一般編(試案)について -その1 序文- 

 昭和二十二年度 学習指導要領一般編(試案)について -その2 第一章- 

昭和二十二年度 学習指導要領理科編(試案)について -その1 はじめのことば- 

昭和二十二年度 学習指導要領理科編(試案)について -その2 第一章 理科の指導目標-

 

参考文献集

 

*1は修士論文の一部。*2は研究紀要発表。いずれも一部改稿。

 

なぜ、生活単元理科か?

身の回りの物質を高校化学教材で扱うときの基本理念を考えることができる。

身の回りの物質を高校化学教材として扱うときの問題点は、生活単元理科の中に内包されている。

 

探究活動の理念。 

  (本来の探究活動というのは課題学習的な意味のものだった。もっとわかりやすく言えば自由研究的なものであったが、最近の教科書では、生徒実験に相当するところが探究活動として扱われている。探究活動の一形態だから、まったくの誤用というわけではないが。)

   生活単元理科は同時に、問題解決学習とも呼ばれたように、探究活動的方法に向いていた。 

   探究活動的授業の問題点の一部も生活単元理科に内包されている。

 

 

 

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碑の聲

碑の聲        CRYSTAL  Home 

 

旧山陽道 神辺・高屋(写真)

 山陽道広島県岡山県の境界碑です。

写真1 西側  神邊驛へ壹里拾八町四拾五間

写真2 北側  廣島縣距 廣島細工街元標参拾里貮拾八間参尺九寸

          岡山縣距 岡山橋本町元標拾参里貮拾七町参拾六間 (中央に)管轄境界標

写真3 東側  七日市驛へ壱里拾壹町拾参間

     南側  大正八年壹月  備中國後月郡高屋村

                     備後國深安郡御野村

 

壹 イチ イツ ひと・つ  壱の異体字

貮 二 ジ ふた・つ 弐の異体字

 

 

熊口池堤樋完成記念碑(写真)

 

 岡山県笠岡市篠坂にある溜め池の堤に建つ石碑です。

写真1  正面に以下のように記されています。

     熊口池堤樋完成記念

          昭和五十五年五月建立

写真2 堤のつちへんのところに雨蛙が入って眠っています。

写真3 上のほうから排水する樋です。

 

除虫菊石碑

    因島の花除虫菊

    風さやか

     ロマンの島の白い花 

           広島県知事 藤田雄山

 

     広島県尾道市因島重井町  因島フラワーセンター 入口付近にあります。

 

 

因島除虫菊の父

        功徳

    因島菊の父

    村上勘兵衛翁之碑

  広島県尾道市因島重井町一本松 中島菓子店の前 松のある広場の北側にあります。   

  さらにその左隣りに詩碑があります。

村上勘兵衛翁詩碑

     除虫菊神社

         塵外作  

   偉哉霊薬除虫菊

   成就天慈地澤深

   欲攘坤圓球上穢

   發揚清浄自然心

背後の山は左側が村上水軍馬神城跡、中央が青木城跡。

 

源義経上陸の地碑   遠景

  徳島県小松島市  

  四国八十八所霊場18番恩山寺の近くです。

 

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夕凪亭閑話 2006年6月

夕凪亭閑話 2006年6月   CRYSTAL  Home 

2006年6月2日金曜日

 6月は蝸牛(カタツムリ)の季節である。しかし,最近はカタツムリにもなかなかお目にかかれない。いるのはナメクジばかりである。昔は,橙の木の下によくいた。幹を登ることもある。通った跡は,ナメクジ同様きらきらと光る透明な道筋を残す。日中は蕗の下にひっそりと隠れていることもよくあった。

 蝸牛は雌雄同体で,一匹でも子孫を残せるが,相手がいれば,そちらを選ぶという,便利な生態をしていると,何処かで読んだことがある。同じように見える蝸牛でも,それぞれ個性があって,まったく親と同じであれば,環境の変動にも同じような影響を受けるから,できるだけ多様な子孫を残す方が合理的だという,天の配剤によるのであろうか。

2006年6月3日土曜日

 やっと夏になったようである。しかし,梅雨前というのに湿度は低く,日陰ではさわやかであった。庭の踏み石の間に雑草が生えてかなわないので,セメントで固めてカドにした。カドといっても,こういう言葉が分かる人は多くはなかろうから,少し説明が必要だろう。

 カドを説明しようとしたら,瀬戸内地方の農家の構造から話さなければならない。一軒の農家があるとしよう。市道から私道を経て農家の敷地に入る。住居と倉庫がある。その間と前の広い空間がカドである。角(かど),四つ角とかいう「かど」が,かにアクセントがあるのに対して,この広場のカドはドにアクセントがある。現在なら住居の前の空間は庭と呼ぶべきだろうが,農家にとって庭は玄関の戸を開けて入った土間が庭(ニワ)である。この庭の左に和室がある。6畳か8畳である。さらにその左奥に床の間つきの和室がある。ここが上の間(おかのま)で,土間のすぐ左が下の間(したのま)である。土間の右手には,木製の丈夫な戸のついた物入れがある。これが「ネズミイラズ」である。

 いうことで,「ニワ」と「カド」の関係がおわかりになられたであろうか。だから,庭の一部をセメントで固めれば,そこはカドになるのである。

2006年6月11日日曜日

 カドを作るのに,庭の土を掘り返しているので,そこから出た虫を食べに,雀が夕凪亭の前へしきりとやってくる。よく聞いていると,来る時と逃げる時の囀りが異なるようだ。さながら,はじめのは「餌があるぞ」と解釈できた。後のほうは「危険だ,逃げろ!」と言っているようであった。こういう話しを家人にすると,受験生の息子は,餌を教えることはない,他のものが見てやってきただけだと言って,平和論者の私と見解が相違した。かように,雀の囀り一つの解釈を巡っても,観察者の人生観やら思想が反映するものであるらしい。イギリスのフラシシス・ベーコンがイドラと呼んだものである。「種族のイドラ」「洞窟のイドラ」「市場のイドラ」「劇場のイドラ」である。上記の例は「洞窟のイドラ」であって,人間個人のイドラのことである。THE NEW ORGANON から該当のところを引用しておこう。

XLII

The Idols of the Cave are the idols of the individual man. For everyone (besides the errors common to human nature in general) has a cave or den of his own, which refracts and discolors the light of nature, owing either to his own proper and peculiar nature; or to his education and conversation with others; or to the reading of books, and the authority of those whom he esteems and admires; or to the differences of impressions, accordingly as they take place in a mind preoccupied and predisposed or in a mind indifferent and settled; or the like. So that the spirit of man (according as it is meted out to different individuals) is in fact a thing variable and full of perturbation, and governed as it were by chance. Whence it was well observed by Heraclitus that men look for sciences in their own lesser worlds, and not in the greater or common world.

 さて,さらに雀の行動を観察していると,見張りが一羽いることがある。そしてその見張りは,餌を取ることなく,同じ調子で鳴き続けている。「今は,安全だ」という合図だろう。そして時々,餌を啄んでいる他の雀が,その見張りに餌を運ぶのだ。

2006年6月12日月曜日

 雀と言えば,舌切り雀だが,今日は,雀と蝶の対話という面白い話しを紹介しておこう。雀は秋になると,蛤に変化するという俗説があった。そういえば,幼稚園の遠足で行った砂浜には浅蜊より少し小さい,薄黄色の殻をもった二枚貝がいた。スズメ貝と言って,取って遊ぶのだが,浅蜊と異なり食用にする習慣がないから,捨てて帰る。普通潮干狩りというのは,灰色から黒に近い磯土の中にいる浅蜊を獲る。浅蜊は,砂浜にはいなくて,このスズメ貝というのは,海水浴をする満潮に近いころでも獲れるから,幼児にとっては楽しい。しかし,ほどなくしてそのスズメ貝はいなくなった。確かに,あの頃の海は,おとぎ話に出てくる海のようにきれいだった。

 さて,その秋になったら,蛤にならなければならない雀が,蝶に言う。おまえは毛虫から,美しい蝶になって,自由に飛び回れるようになった。それに引き替え,自分は今は自由に飛び回っているが,秋になるといかなる因果か,蛤になって冷たい海の底で,外の世界も見ずに暮らさなくてはならない,と嘆く。

 それを聞いて,蝶は「嘆くなかれ。汝が下落にもあらず,我が立身にもあらず。」と言って雀を慰める。毛虫から蝶へどのように変化したか覚えていないし,まして毛虫の時のことは忘れてしまった。雀さんも自然に蛤になって,蛤になったら,雀のときのことは忘れて,蛤の心になって「極寒にも水中を家として,寒き事もなく,転びまはりて,相応に世をわたるならむ。」というわけで,蝶の演説はまだまだ続く。輪廻転生といっても,「前生の事,誰か覚へたるあらむや。」というわけである。

 という,なかなか含蓄に富んだ話しが,江戸時代の思想小説的戯作「田舎荘子」の巻頭を飾る「雀蝶変化」である。新日本古典文学大系の81巻にある。

2006年6月13日火曜日

 子供の頃,雀を飼ったことがあります。といっても,わずかな期間で,結局餌付けできなかったので,逃がしてやりました。春になって,樋と屋根の間に作っている巣に手を入れて,飛び立つ前の雀をつかまえて来ました。それを,金網で覆った箱に入れて飼育していました。しかし,残念ながら,僕がやった餌は食べてくれません。雀から離れていると親鳥が,餌を掴まえてきて,金網越しにやっていました。その光景を何度も目撃し,これでは飼育の意味がないと思い,諦めて逃がしました。何度か,やってみましたが,いずれも同じ結果でした。眼が開く前から育てないと,なつかないとは,よく聞くことです。でも,残念ながら,眼が開いている前の雀の雛で,無事育てたということはありませんでした。すなわち,雀を手なづけたことは,残念ながら,ないのです。

2006年6月18日土曜日

 最近の読書から。

 「ダ・ヴィンチ・コード」上(角川文庫)。もっと先が読みたい,という気持ちになかなかなりません。凱旋門近くのロータリーは,昔,「ジャッカルの日」という,これまた世界的なベストセラーにも出てきて,そのときは,その先が知りたくて,熱中したものですが・・・。

  島田荘司「ロシア幽霊軍艦事件」(原書房)。これは図書館から借りてきて。返却日があるので,ある程度時間を割かねば・・・,ということで,珍しく集中した。ロシア革命の復習。ロマノフの秘宝とかペトロフ事件に興味ある方はどうぞ。アナスタシアものですが・・・。

2006年6月21日水曜日

 本日は夏至である。例の理科年表によると,太陽黄経90°,(21時26分)ということで,つい先ほど,黄経90°を通過した。7時45分くらいまで,明るかった。朝は4時過ぎから明るい。

 我は海の子。我は夏至の子,である。そのせいかどうかはわからないが,夏ばてというものを知らない。暑くもても食欲は一向に衰えない。しかし,汗が出るので,動くのは嫌だ。

 梅雨の中休みも終わり,明日からは雨が降りそうである。雨ニモマケズ,・・・夏ノ暑サニモマケズ・・・。

 その夏の暑さを,弘法大師さまのお力にすがろうというわけではないが,昨日,四国八十八カ所霊場巡拝御寶印譜の掛け軸が完成し,届いたので,般若心経を唱えて軸開きをした。息子にどういうものか説明すると,新種の動物でも見るような眼で見ていた。一応分かっとは言ったが,お互いに異次元の世界に棲んでいることを確認しただけであった。

 

2006年6月23日金曜日

  昨日は大雨洪水警報が出るほどの激しい雨で,いよいよ梅雨も本格化して,湿度の高い日が続く。子供より親が大事と言った太宰治ではないが,人間より,本のほうが大事,と思いたい。ということで,夕凪亭では,バンバンとエアコンを効かせて,除湿している。何しろ,自分で設置したエアコンだから,今年も動くだろうかと,不安なのであった。セパレート式のエアコンは室外機と室内機を結ぶ銅のパイプの接続が一番難しい。トルクレンチなるもので,締め付ければいいのだが,そういう工具は買っていないから,カンで行うしかない。締め過ぎると銅のテーパー部分を割る。締め付けが弱いと,当然のことながらガスが漏れる。これまでの経験では,1年もてば,だいたい大丈夫のようだ。ガス圧が低いと,室外機の送出側に霜がつく。こうなると,素人の哀しさ,お手上げである。その部分が霜でなく水滴がつくようだったら,順調に行っている。

2006年6月25日日曜日

 最近の読書から。宮部みゆき「理由」(朝日新聞社)。これも図書館から借りてきて。よく出来た小説です。と言っても,宮部さんの本は,どれもよく出来ていますから,今更,傑作ですとか言う必要はありません。もうずっと前のことですが,「レベル7」とか「パーフェクトブルー」とか「龍は眠る」とか「悪魔はささやく」とか,いろいろ読んで,大ファンだったのですが,面白すぎて読むのをやめていた次第。正確に書くと,面白くなって,あっという間に読んで,しばらくして忘れてしまうので,読むのをやめていたのである。今回も,急いではいけないと,何度も自分に言い聞かせていたのだが,半分も行かないうちに,加速度がついて・・・・。offする理由が,丁寧に,リアルに書かれていたということと,不動産取引というのは,やはり大変なのですね,ということが残ったので,後は忘れてもいいことにしましょう。最後に,どんでん返しをしてもよいだけの材料があったのにしなかったのは,残念ですが,それは,主題とのかかわりですから,仕方がないか。

 今朝からカウンターを,crystal top 頁につけました。夜になって,同一IPアドレスからの連続アクセスは2回目をカウントしないように設定しました。あいだに,他のIPからアクセスがあれば,またカウントすると思います。

2006年6月27日火曜日

 本田靖春サンパウロからアマゾンへ」(北洋社)を読んだ。ブラジルのレポートである。ブラジルのレポートは,日系人社会を描いたものと,アマゾンの大自然を描いたものが大部分である。この本は前者である。といっても,アマゾンの大自然の中にも日系人社会はあるから,その記述がないことはない。昭和51年に書かれたこの本がなぜ夕凪亭の書棚にあるのかというと,北杜夫さんの「輝ける碧き空の下で」という小説の参考文献にあったからである。第2部のほうである。ピメンタもジュードの話しも,ほんのわずかだが,それでも,アマゾンに住む日系人の歴史と様子がよくわかる得難いレポートである。そして,そこから見た日本及び日本人への提言も,ジャーナリスト魂のなせるところであろう。

2006年6月29日木曜日

 7時前になって,曇った空の雲の切れ目から日が射しだした。今日も蒸し暑くなりそうな気配だ。とはいえ,また明日からは雨という天気予報。空梅雨というのは例年のことだが,今年は梅雨らしい梅雨だ。しかし,降り出すと激しい。やはり,温暖化による異常は続いていると見るべきか。

 遅ればせながら,山梔子が咲いた。まだ一輪だけである。早い家では一週間くらい前から咲いて,近くを通るとあの独特の香りが匂っていた。早く咲かないかと期待していたら,やっと咲いた。折ってきてコップに刺してテーブルの上に置いた。まだ匂いは弱い。

2006年6月30日金曜日

 去年植えた紫陽花は何とか根付いたのに,今年は咲かなかった。来年は咲きますように。このところの,温度上昇により,西洋朝顔が急に大きくなりはじめた。蔓が地を這っているので,そろそろ天に向かうようにしてやらねば。メダカも何尾か生まれている。暑いか,雨かどちらかなので,卵を分離することもせず,勝手に繁殖させている。去年買ったウォーターレタスは,結局屋外では冬を越すことはできなかったが,屋内にあったものが外に出すと,再び増え始めた。根のところに茶色い泥を集める。おかげで水は澄み,好都合である。菱にも似たような作用があるのか,ある日突然水が澄む。コロイド化学でいう,凝析である。これで思い出すのは,昔,田んぼでみたことのあるドジョウだ。鰓で呼吸するから鰓の動きを飽かず眺めていると,ドジョウの周囲だけが水が澄んでいたことがあった。あれも,凝析させるようなものをドジョウが分泌していたのではないか,と思う。

 紫陽花は咲いていないが,ミニ薔薇が9輪,真紅の花びらが雨にぬれている。夕凪亭は,塀に沿って植えてある木蓮やモッコウバラやタイサンボクによく似た木やバベが繁って,道路からはほとんど見えないので,日が暮れるまでカーテンはしない。青く煙った遅い黄昏が次第に小雨の夜のなかに浸されていった。そしてやがて,6月も終わる。2006年も半分終わった。ああ。

 

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夕凪亭閑話 2015年5月

夕凪亭閑話 2015年5月      CRYSTAL  Home 

 

2015年5月1日。金曜日。晴れ。

五月になった。爽やかな五月の風が吹いている。

朝、買い物。井原。図書館。午後昼寝。時々、庭に出て草取り。

古い写真や原稿の整理。

 

 

2015年5月2日。土曜日。晴れ。

9時前に出て、潮騒荘へ。

さすがに連休の初日とあって車が多い。途中でやや止まったりするも、かろうじて渋滞せずに流れた。案内では福山西と尾道JCの間で3キロの渋滞であった。

午前中、山畑へ行って、女竹を中心にカット。草はどんどん伸びてくる。

午後は椋浦町。一ノ城跡へ水軍スカイライン側から登る。急な斜面。それに気温も高く疲労はなはだしい。

本丸跡周辺の草刈り。少し展望がよくなった。ここの展望は素晴らしい。ただ北側がどこに行っても見えにくいのが残念。

 

 

2015年5月3日。日曜日。晴れのち雨。

潮騒荘にて。

朝、峯松山登山道。竹を切って日当りをよくすると草が驚くほど早く生えるので、竹は残したまま、昔の道を探すことにして奥へ入る。途中で左へ寄り過ぎているように思ったので、右へ旋回する。なだらかで、枯れ竹に邪魔されないルートはたくさんあり選択肢は広がるのだが、とりあえず一つのルートで峯松神社の注連縄石まで通じさせるのがよいかと思う。

午後、小雨のため読書。昼寝。夜、福山へ。尾道までしまなみ海道は渋滞。

 

 

2015年5月4日。月曜日。晴れ時々曇り。

散歩。ツツジの写真など写す。

メンテナンスをしていない植物誌と博物誌を新たにはてなブログで作る。旧版はターゲットフレームで五十音インデックスをつけてあるので、残す。はてなブログのほうはそれはないが、変更が簡単なので操作しやすい。ある程度変更が進んだ段階でWin版の旧版を修正すればよいとは思うが当分しない。

写真、原稿の整理など。

 

 

2015年5月5日。火曜日。晴れ。

朝、散歩。それからディスカウントストアーへ。午後、昼寝。写真と原稿の整理。4時半に出て潮騒荘へ。少し明るいので、峯松山登山道へ。左へ寄り過ぎたので、右へ上がる。そこから二三段上に上がると女竹と大きな岩の群になる。この左端の岩が峰松神社の注連縄石の下にある岩と同じものかわからない。同じものだとすると右へ寄り過ぎている。この岩の並びの下を左へ移動するのなら、初めから右へ行く必要はなかったということになる。また、幼時の記憶では岩は一つでその岩の左(北)を迂回すれば注連縄石に出るのだ。明日は、右に旋回した元のところを、もう少し上まで進み、この岩群れの左端近くへ行って確認するのがよいかも知れない。

 

 

2015年5月6日。水曜日。晴れ。

潮騒荘にて。朝、8時頃から、峯松山登山道へ。周辺の雑草や灌木を少し刈ってから、昨日考えたように、右に行かずに元のところを登る。しかし、元畑の段差と段差が大きく、上がり口が見当たらないので、やや右に寄ってそれから左折して段差の低いところを上がる。昨日の岩群れは見えない。さらに登る。やがて女竹の群れで進路を阻まれる。どの辺りにいるのかも見当がつかない。尾根の明るさらしき方向を目指す。イノシシの通った跡がやや通りやすいので、女竹を少し刈って進む。登山道と決まったわけではないので、最低限にして進む。大きな石垣と大木。これは峯松神社の下ではないかと思う。すると、また左へ寄り過ぎだ。かすかな光の入り具合を便りに右へ振って、29日に通過した注連縄石の下に出た。それも、29日に少し刈っていたので、そこだけが女竹の群れが薄くなっていたので、目的地だとわかった。これで、やっと貫通した。少し道らしく女竹を刈って、広げた。途中が昔の道と異なるように思うが、とりあえず通れるようにすることが先なので、最低限の整備をしながら目印をつけて下山。

午後は13:00のこまたきで細島へ行くべく西浜桟橋へ集合。往復300円。15分で細島へ着く。浜田神社を見て、港へ引き返し、東へ進路を取る。共同墓地、荒神社等を経て島内を回り、北側の農道を西へ戻る。新開の親戚の畑の傍へでて、海へ出る。地の雀島に渉る。そこから西へ海岸伝いに歩き、浜田神社の隣りを通って桟橋へ。17:40の休日最終便で重井西浜へ帰る。

夜、福山へ帰る。玉島笠岡は上りが10キロ渋滞ということであったが、しまなみ海道は通常通り流れていた。 

 

 

2015年5月7日。木曜日。晴れ。

散歩と外出。写真と原稿の整理。昼寝少し。

 

 

2015年5月8日。金曜日。晴れ。

散歩と外出。写真と原稿の整理。昼寝少し。と、書けば昨日と同じ。炬燵を上げる。ソファベッドを半分上げて、ソファーにする。腹這いになったり、昼寝をしたりと便利この上もない。

でも、夕凪亭が狭い。仮眠スペースを作っておくべきだったと、いつも後悔している。でも、構造上は無理。諦めるしかない。

 

 

2015年5月9日。土曜日。雨後曇り。

朝から雨。9時前に出て、潮騒荘へ。昼過ぎまで小雨。しばらくして庭木の剪定。山へ行こうかと思ったが雨が降って蛇が元気になっているような気がして、遠慮しておく。

「カラマゾフの兄弟上」、中山省三郎訳、「第二篇 お門違いな寄り合い」を終わる。また、福田 恆存福訳で「老人と海」終わる。何度目かはわからない。終わるといっても時々いろいろなところを開けては読んでいるので、終わったも何もないのだが、同じチェックが終了したということ。

 

 

2015年5月10日。日曜日。晴れ。

潮騒荘にて。朝起きて、庭木の剪定をしようと思っていたが、この冷気(いや、暑くないということ。十分に温暖である)では蛇さんも活動を開始すまいと思い、意を決し峯松山登山道へ。峯松神社まで行く。その先の鐘楼線への道の入り口を刈って、徐々に落ち葉を払いながら下山。注連縄石から下は女竹を主として刈り、道を広げていく。前回よりもさらに整備が進んだ。

11時30分に重井西港へ集合して、40分発のフェリーで佐木島へ。フェリーは残念ながら、「Nのために」のロケで使われた「第五かんおん」ではなく「第二かんおん」であった。帰りも同じ。洲の上から入って大平山へ登る。佐木島因島の対岸で、いつも見ているのに、上陸するのは初めて。かつて、三原行きに利用したときは、いつも鷺浦港に停まるが、下船したことはなかった。因島がよく見えておもしろい。18時25分のフェリーに乗って帰る。片道250円。

夜、福山へ。

 

 

2015年5月11日。月曜日。晴れ後曇り、一時雨。

季節としては初夏なのに、屋内は意外と暑くない。

朝、コインランドリーへ炬燵布団を持って行く。26分でできるので、一度帰ってまた取りに行く。庭に干してから、車を洗う。と、いっても水をかけるだけ。メダカの卵をとろうとしても、1個しかない。まだ、水温が低いのか。

原稿と写真の整理。古い原稿は一太郎で書かれている。ワード文書はほとんどない。ワード文書だったら、Macテキストエディターで読めるのだが、一太郎ファイルは読めないので、ひとつひとつhtm文書に変換する。

炬燵布団を二階に上げた。窓を開けておいたのだが、夕方雨が降り出したので、閉める。雨さえなければ爽やかな気候である。雨はすぐにやんだ。夜になって少し寒くなった。22℃だった。

 

 

2015年5月12日。火曜日。曇り後雨。

台風の影響で9時頃小雨。昼前から本格的に降り出す。

16時半に出て潮騒荘へ。小雨。次第に止む。

佐木島、大平山を写す。30倍ズームでは頂上に置いて来た白い布がかろうじてわかる程度。そう思えば、そう見える。

 

 

2015年5月13日。水曜日。晴れ。

潮騒荘にて。ガス工事のため、外出せず。庭木の剪定など。16時前に終わったので、因島図書館へ本の返却に行き、帰りに精米し、灯油を買って帰る。

夜、福山へ。

 

 

2015年5月14日。木曜日。曇り時々雨。

すがすがしい天気だったので、至るところの窓を開けて空気の入れ替えをしていたら、予想外の雨で、皆閉めてしまった。

午前、図書館。午後、眼科定期検診。今後は3ヶ月後に。

tombosouさんが描いた古城のイラストに解説エッセーを書く。

 

 

2015年5月15日。金曜日。晴れ。夜一時雨。

やや、蒸し暑い日。日射しもきつい。

朝、買い物。午後昼寝

。また古城のイラストが届いたのでとりあえず頁を作り、それぞれに簡単な解説を書く。と、言ってもなかなか本丸にたどり着けない。周辺をぐるぐる回っている感じ。夜、古文書講座。

 

 

2015年5月16日。土曜日。雨後、晴れ。

朝から雨。9時前に出て、潮騒荘へ。昼前まで小雨。ホトトギスが鳴いている。庭木の剪定など。午後、三庄観音寺。三十三観音など。

 

 

2015年5月17日。日曜日。晴れ。

潮騒荘にて。午前中、峯松山登山道整備。潮騒荘周辺掃除。

午後、因島公園から荒神山城跡、長崎城跡、島四国など。

夜、福山へ帰る。

 

 

2015年5月18日。月曜日。晴れ後曇り雨。

三段跳びで天気は崩れてきた。そして珍しく激しく降った。

今日も忙しかった。城跡の解説文を書いているのだが、何しろ1600の関ヶ原因島水軍の歴史は終わるのだから、その後の空白は埋めるべくもない。この400年前が末期村上水軍だからその前の世代となると、更に昔のことだ。もう歴史というよりも伝説だろう。

夜、遅く青木城、馬神城、天秀庵城の海岸線を巡って、メールで検討。資料が送られてきたので、それの解読。

 

 

2015年5月19日。火曜日。晴れ。

朝、8時前に散歩。あまり暑くない。10時頃笠岡へ。夕方内科医院へ。

城跡物語を少し書く。今日はあまり進まなかった。適当に読書。これもあまり進まなかった。アランの芸術論も面白くなかった。ハイデガーは相変わらずわからないが、目を通そうかと、時々思う。以前、諦め宣言をしたことがあったが、いつのまにかまた、じわじわとハイデガーの磁気圏に引っ張られているようだ。暖かくなったせいか、乾燥皮膚がやや下火。でも痒い。終息すればよいと思うが、どうであろうか。

今日は福山でもホトトギスが鳴いていた。

 

 

2015年5月20日。水曜日。晴れ。

今日は、因島八景をまとめて載せる。個々の写真はまだ。

16時過ぎに近くの図書館へ県立図書館から借りた広島県史を返却に行き、そのまま潮騒荘へ。

今日は潮が大きくひくということなので、日没前に大浜の八重子島の写真を写しに行く。そこにはいつものメンバーさんたちがいたので、青木城、天秀庵城の位置関係を確かめにいく。日は暮れかけていたが概略を知ってもらった。

 

 

2015年5月21日。木曜日。晴れ。

潮騒荘にて。午前中家の回りの道路の整備など。11時に合流して生名島へ。長崎桟橋の回漕点(切符売り場)へ入って、懐かしいような気持ちになった。そこは港そのものだった。切符売り場の前にパンや弁当が置かれ、その隣りには中郷牧場と書いた古い牛乳販売の冷蔵庫があった。蛍光灯を白熱電灯に替え、ジュークボックスがあって「赤いハンカチ」でも流れてくれば、それはそのまま40年前の尾道駅前桟橋の光景ではないか・・・。土生というところはそんなところだ。今でも島回りの船がひっきりなしに出入り、港町の光景をそのまま留めている。

生名行きのフェリーに乗った。往復140円である。長崎城跡、荒神山城跡を海の向うから写したいと待っていたのだ。しかし、船はホトトギスの声を聞きながらあっという間に生名島へ上陸した。

麻生イトさんでおなじみの三秀園を経て立石山へ登る。

夕方下山。

7時過ぎに福山へ。

 

 

2015年5月22日。金曜日。晴れ。

今日は買い物の日。それから井原へ。

午後昼寝。夕方、分担執筆の改訂版のチェックを済ませて投函。錦堂へ紅葉饅頭を買いに行く。

夜、本を読んでから、写真の整理。

 

 

2015年5月23日。土曜日。晴れ。

朝5時に起きる。5時50分にタクシーを予約しており、それに乗って大門駅へ。大門駅6時5分発。7時24分福山発で東京へ。東京から武蔵野線で松戸へ。これはディズニーランドに行く京葉線の隣りで、赤いラインに従ってひたすら地下へ降りて行く。いろいろな路線があるが、乗り換えなしで行けるので、滅多に行くことがないものにとってはこれがわかりやすい。二時間程いて、逆コースで帰る。帰りは時間を決めていなかったので指定は取っていない。自由席に座れたのでよかった。行きも帰りも富士山がよく見えた。

曇って日暮れが早かったが、雨は降らなかった。

疲れたの11時まえに寝る。

 

 

2015年5月24日。日曜日。晴れ。

6時に起きる。8時過ぎに出て、潮騒荘へ。池の手入れ。午後、周辺の整備。

6時過ぎに福山へ帰る

 

 

2015年5月25日。月曜日。晴れ。

朝散歩してずっとパソコンに向かって古い原稿の整理。写真の整理。フォルダーの整理。

それはよいとして・・・部屋の整理もしなければ。

メダカが2尾孵っていた。しかし、今年は卵をあまり生まない。ホテイアオイも育たない。

 

小さい頃のことを3つ思い出していておく。

1 おもちゃをもらうとよく壊していました。すぐに分解するのです。

自動車とか電車とか金属でできていました。

裏側の板は、ねじ止めというよりも穴に小片を指し込んで曲げて固定するタイプです。

ドライバーはなかったですね。ペンチと鋏と裁縫箱にあった先が平らな彫刻刀のようなもので曲げて開けて中身を見るのです。

もらったら少し遊んで、そのしくみが見たくてそうするのですね。

チョロQのような精巧なものではなかった。ちょっと厚くて大きな慣性力をためるための円盤がギヤに連動していて、二三回、 手に持ったままで床にすべらせて前へ素早く押すと、タイヤが回りはじめ、その円盤の慣性力で、手を離すと車はしばらく進みます。

どんなものから出来ているのかというのがわかればいいのです。原理がわかればさらによかった。

これは中学校の頃まで続きます。ラジオがプリント基板になった頃から、多くのものが壊してもどれも同じようで、面白くなくなりましたから、だんだんとやめていきました。

2 これも幼稚園に行く前のことです。

自転車の発電機が落ちてました。拾ってきました。回転がスムーズでなく、ある位置で止まります。分解したくて仕方が無い。

どこにもねじらしきものがない。どうしても分解できない。金槌で何度も叩いたり投げたりして、相当力を加えて、何日かたって外側を壊したと思います。強力な磁石とコイルが出てきました。分解して得たものでしばらくは遊びました。

3 三輪車に飽きた頃。

二台の三輪車をそれぞれ逆さにしてハンドルとハンドルを少し高い位置で、綱でくくります。前輪は宙に浮いています。四輪車になります。足をかけて乗れます。上から力をかけると壊れました。

これらは本能的なもので、理屈ではない。好奇心のおもむくままに好きなことをしていたのだろう。

 

 

2015年5月26日。火曜日。晴れ。

朝、散歩。暑い一日だった。メダカの卵を30個ほど捕って、発泡スチロールの容器に移す。やっと生み出したようだ。ホトトギスが一日中鳴いていた。

今日は、因島の城跡を年代順に並べた。といってもまだ前半。鎌倉、南北朝あたりまで。南北朝後半から村上氏の支配下になるのだが、どこから水軍と呼ぶか難しい。

16時半に出て潮騒荘へ。

 

 

2015年5月27日。水曜日。晴れ。

潮騒荘にて。

朝、白滝山表参道の旧道を復活させるために、伝六さん下の百華園から草刈りと枯れ枝の撤去を始める。ホトトギスが頭上を鳴きながら旋回する。カメラは少し離れたところに置いていたので、取りに行くだけの余裕がなかった。入り口付近は荒れていたが竹薮の中はまことにきれいで、どんどんと進み、あっという間に西洋館の上に出た。残念。竹薮が切れているところは雑草が生い茂っている。直射日光も強く、大雑把に背の高い草だけ刈って残りは他日に期すことにして、帰る。

帰って家の回りの草取り。

午後は昼寝。夕方福山へ。夜、町内会の役員会。

 

 

2015年5月28日。木曜日。晴れ。

朝7時に歩く。暑くなる前に歩くとよい。

因島城跡物語」を進める。まず配置を固定。

朝、笠岡へ。

午後、昼寝。

 

2015年5月29日。木曜日。晴れ。

今日は7時半に散歩。もう少し早いほうがよいが。

9時から買い物。それから、井原。

午後、図書館。それから昼寝。

因島城跡物語」は序章、終章、参考文献の頁をつけた。

 

 

2015年5月30日。土曜日。晴れ後雨。

朝、8時過ぎに出て潮騒荘へ。

すぐに、伝六さん下の第一駐車場へ。そこの草刈りをごく一部分だけして、伝六さんから百華園への下り口付近の草刈り。ついで、旧参道の草刈り。

ここで、私は大変なミスに気づいた。今までは失われた旧参道は、百華園に合流して、伝六さん下まで至るものと考えていたが、合流などしていなかった。

旧参道は西洋館上を、塀沿いに登り薮の中を通って、百華園近くへ出る。しかし、合流しないで、並行して伝六さんの下に至る。途中で、この旧参道へ百華園の上方出入り口が合流する。すなわち、昔ながらの参道は健在で、百華園に飲み込まれていないことがわかった。だから、これを表参道としなければならない。

結論としてこうなる。

表参道とは、川口大師堂下の変形四辻を起点として、東へ登る。途中、大下裏三叉路では左へ道を取り、油屋裏、岩蔵屋裏を登り、伝六ロードと交差する。そのまま東へ登り、西洋館(ペンション)に至る。西洋館上で自動車道を進まず、西洋館の塀沿いに石段を上がり、薮の中で左折して、百華園頂上付近に至る。そこで、百華園中の遊歩道と並行して登り、水道タンク前で百華園遊歩道が、表参道へ合流する。そのまま石段を上がると、自動車道、第一駐車場から来た道が表参道に合流し、伝六さんに至る。これより後が、仁王門、大日如来を経て山門に至る。

これが表参道である。

 

午後、生名探訪。今回は高松城跡を見るため左手方向へ歩く。途中で雨。

 

生名雨情

 

雨がふるふる生名島

あれに見えるは岩城の山か

帰る港と真反対

より強くなる雨脚に

濡れるカメラが気にかかる

気温も下がり日も暮れる

 

道はあれども人はなし

やっとみつけたおばさんに

立石港の位置を聞く

示す彼方は今来たところ

いつの間にやら間違えて

無駄足踏んだ雨の中

 

とぼとぼ歩く同じ道

曲れば見える天狗山

霧の彼方のふるさとか

近道の路地塞がりて

また戻りつつ見上げれば

赤い桟橋その先に

 

 

2015年5月31日。日曜日。晴れ。

潮騒荘にて。

朝、少しセメント塗り。

午後、青影城跡探訪。13:30、竹長バス停集合。Mさんの車で田熊側登山口まで。六松公園下の、因島八景の碑のあるところ。そこから歩く。山頂整備。18時過ぎ、下山。

夜、福山へ帰る。

 

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