夕凪亭別館

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因島 白滝山と伝六年譜

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白滝山と伝六年譜(年齢は伝六の数え年)

永禄12年(1569)6代村上吉充因島全土を掌握(小早川隆景の指示による)し青木城(本城)を築城。本城の控えの要害として白滝観音堂(堂主、➡️常楽院静金)建立。

慶長5年(1600)柏原土佐守忠安の次子忠親、重井川口に居住。

寛永12年(1635)因島8ケ村に分村。重井、中庄、大浜、外浦、鏡浦、椋浦、三津庄、公庄(土生、田熊)。

天明元年(1781)柏原伝六生れる。

文化2年(1805)25才。伝六2月23日西国三十三番札所参拝へ出発。4月13日帰省。

以後、家業(農業兼木綿問屋)を放り仏道修行に入る。(17年間)

文化13年(1816)近隣島々に四国八十八所御本尊を勧進。白滝山頂に祭祀。

文政5年(1822)42才。霜月6日伝六後悟達す以後「観音堂一観」と称す。

*古い資料では文政9年(1826)頃「観音堂一観」と称すとあるが、誤解である。

文政6年(1823)43才。伝六白滝山観音堂整備、多宝塔建立。

文政7年(1824)44才。伝六自画像・書など記す。➡️伝六の遺墨

文政8年(1825)45才。伝六4~5月約50日間、弟子の峯松嘉七(18才)他2名を代行伝導させる。岡山、兵庫、京都、鳥取。一日に500から1000人の加持祈祷をしたという書信が重井に届く。(峯松嘉七は正賀屋初代。)

文政9年(1826)46才。8月8日。京阪神の信者寄贈なる白衣観音の入仏式挙行。本堂右側へ安置。

文政10年(1827)47才。正月より柏原林蔵が責任者となり石仏工事に着手。記録・勝手方に峰松初五郎が当たる。柏原林蔵は宇根家3代、峰松初五郎は新屋2代。

11月釈迦三尊大石仏完成。(山頂広場、北面)

文政11年(1828)48才。2月阿弥陀三尊像完成。(山頂広場、展望台階段の右手)。本土、近隣の島々に伝聞され多数の参拝者で賑わう。

3月15日伝六没す。9月伝六墓所に埋葬される。

文政13年(1830)林蔵着工以来三年三ヶ月籠山の後白滝山五百羅漢完成。

天保5年(1834)八幡宮、善興寺へ仁王像建立。(寄進者 村上十兵衛、柏原林蔵)

嘉永3年(1850)重井村四国八十八カ所霊場建設(伝承)。(村四国)

安政6年(1859)白滝山観音堂再建。

明治元年(1868)神仏分離令により八幡宮仁王像、白滝山中腹へ移転。

明治4年(1871)白滝山観音堂、善興寺奥院となる。

明治42年(1909)白滝山に仁王門落慶

明治45年(1912)因島四国八十八カ所霊場建設。(島四国、新四国)

大正8年(1919)白滝山庫裏、鐘楼再建。

大正14年(1925)白滝山道路改修工事。

昭和2年(1927)伝六一観居士百回忌法要。

昭和6年(1931)西洋館(現・ペンション白滝山荘)建築。

昭和10年(1935)広島県農事試験場除虫菊試験地設置(伊浜)。

昭和11年(1936)歌人吉井勇、白滝山に登る。

昭和24年(1949)白滝山梵鐘新調。

昭和30年(1955)因島白滝公園保勝会設立。

昭和31年(1956)白滝山等国立公園指定。

昭和34年(1959)白滝山上に平和一神和石建立。

昭和41年(1966)白滝山「五百羅漢」市史跡文化財指定。

昭和52年(1977)伝六一観居士百五十回忌法要。

平成元年(1989)白滝フラワーライン開通。百華園開園。

平成2年(1990)3月。滝山林道完成。(滝山は字名)。9月27日。市水道山頂まで完成。(工事費約1000万円)。

平成3年(1991)9月。台風19号により鐘楼、石仏等被害多数。

平成6年(1994)4月。広島県公園整備事業により山頂に水洗トイレ完成。(工事費1900万円)。

平成7年(1995)10月。白滝山鐘楼再建。

平成11年(1999)白滝山歩道改良工事完成。予防治山事業完成。舞台再建。梵鐘新調。

 

重井町文化財協会による資料を一部変えてあります。

 

 

このことを簡単に記すと次のようになります。

白滝山は因島村上氏6代の村上吉充が1569年(永禄12年)、13年間いた向島余崎城から重井の青木城に帰ってきた時、観音堂が建てられたことが、記録に出てくる最初です。

吉充は、その時細島にいた山伏の常楽院静金を堂主にしております。このことには二つの理由が考えられます。まず、白滝山が修験道者によって修行の場として用いられていたこと。それに、細島にいた修験道者を味方にすることです。

そして、ここに観音堂を開く意義は、東側の備後灘を見張り所を置くことと、白滝山が青木城の背後の要害となるということです。

 

1588年(天正16年)の刀狩り・海賊禁止令、1600年の関ヶ原合戦後の山口転封によって村上氏の時代は終わります。

 

柏原伝六について禁制のキリスト教をも加えて新宗教を起こしたと書かれたものがありますが、これも冤罪です。なぜなら、このことは

①まず伝六は犯罪者であった、と認定しています。

②次に、しかし現在ならば許される。

という気持ちで書かれたものと思われます。

しかし、「禁制のキリスト教をも加えて」が間違っていれば、①のことから冤罪です。

 

また、②の部分をわかりやすく書かなければ①の部分だけしか理解できない人にとっては伝六を犯罪者と決めつけて終わってしまいます。

 

上記のような恐れがありますので、「禁制のキリスト教をも加えて新宗教を起こした」と記載する人は、根拠を示し、(当たり前のことですが)自己の責任で表明していただきたいと思います。また、②の部分を対象読者が十分に理解できるように説明して下さるようお願いします。

 

 

 

 

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