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夕凪亭別館

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第12回 2017.4.18. (共催:因島白滝公園保勝会)

 

 

いんのしまみち しげいみち おおはまみち なかのしょうみち とのうらみち かがみうらみち むくのうらみち みつのしょうみち はぶみち たくまみち 日本のみち

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[p.45-46画像版][p.59-60画像版] [p.47-51]  [p.52-54]   [p.55] [p.56-57]  [p.58]   

関連リンク

変電所 変電所 才の池 50番繁多寺(因島土生町) 空谷 宝持寺跡 郷荒神社(須佐神社)  大土生家 稲井家居宅跡 論師石(どんじいし)

小丸城跡物語 小丸城跡 小丸城跡探訪 山四国八十八カ所  日野山神社 

百梵山城跡  百梵山城跡物語  百分池

 

郷新開住吉神社 青木沖新開住吉神社 本郷沖新開住吉神社 宮沖新開住吉神社 深浦新開住吉神社

金比羅大権現(石柱)(東浜波止)

金刀比羅神社(青木)

 長右衛門の碑 旧東港

常夜灯 金比羅灯籠

柏原水軒翁築港碑 東浜波止寄附録 金比羅大権現(石柱) 

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第11回 2017.3.21. (共催:因島白滝公園保勝会)

 

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[p.33-34 画像版]  [p.43-44画像版] [p.35-37]  [p.38-41]   [p.42]  

関連リンク

常楽院大徳の碑 馬神山荒神社 吉胡神社(馬神海岸) 馬神道 馬神城跡 馬神城跡物語 北の浜道 その1 長門明神 久保 厳島神社(明神社) 片山伊樋道 藤井神社 天秀庵城跡 天秀庵城跡物語 山神社 成願寺   月海湛玉上座 林蔵墓

善興寺 善興寺 善興寺 慈母観音 芋地蔵堂 末広講 六地蔵周辺

 

 

 

壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録)

 

1。白滝山の現状について  因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

 3月8日村上海賊魅力発信推進協議会の取材があった。また、2月24日白滝山フォットコンテストの受付を終了した。

 

2。白滝山について  その11 [p.35-41]

  白滝山について書かれた基本文献として今回は、青木茂因島市史』(昭和43年)を読む。[p.35-37]

  前回から掲載している 『一観居士因縁記』の概要が記されている。  

 また併せて、宇根家文書『一観居士因縁記』(越後本)を見る。[p.38-41] 

 

3。村上水軍について その11  

 今回は第三家老末永(長)氏のことを記す。 第一家老救井氏は新田義貞の子孫、第二家老稲井氏は 新田義貞の弟脇屋義助の子孫であった。さて第三家老の末永氏については、『能島来島因島由来記』(因島市史料第六集)p.66に「稲井勘解由左衛門尉治家嫡子伯耆守治憲二男ヲ常陸介助義ト云是者有故母方ノ家ヲ立而末長矢治馬助景光ト改ム」とあり、稲井家の分家で母方の姓を名乗ったということである。すなわち、稲井家23代(因島6代)治憲の二男ということである。22代については別書では家治とある。

 さて、その末長氏についてであるが、宮本常一『瀬戸内海の研究Ⅰ』、p.452に紹介されているものの概要を記す。竹原小早川氏の一族で、小早川の分家で重臣の磯兼氏を末長氏の一族左近太夫が継いだ。一族の中には常陸介景盛などの名前も見えるから、この末長氏のことだろう。

 末永氏の死について本会資料第1回Vol.1(2016)、p.2で記した。

 

4。馬神城跡、天秀庵城跡青史跡巡り    [p.42]     

  今回は第三家老末永(長)氏が守った馬神城跡と船奉行片山氏が住んだ天秀庵城跡を中心にその周辺を探訪する。

①常楽院静金供養碑 小林 島四国高照院隣。供養碑は大正九年の三百大遠忌に建てられたもの。高齢であった。

「(前)常楽院 ◯◯ 静金淨清大徳三百大遠忌 (左)大正九年三月廿九日 (右)十代目峯松幾三郎◯建之」  常楽院静金大徳が戒名で、本名は峯松

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第11回            33                      Vol.2(2017)

作兵衛と言い、細島で山伏をしていた人である。重井峰松(峯は峰の異体字)氏の祖は、足利尊氏が九州へ下ったときの従者で、帰国の際尾道で病気のために戦列から離れ、宿の娘を娶った。その後重井に来て峯松五郎左衛門義光と名乗ったと伝わる。五郎左衛門家は白滝山表参道と伝六ロードが交差するところにあり、大瀬戸と呼ばれる。また白滝山南西の尾根にある峯松神社には、峯松元祖豊安大権現 天保十二年二月建之と書かれている大岩などがある。常楽院静金は四代五郎左衛門の五男で、大瀬戸家最初の分家である。常楽院峯松氏は初代から九代までが修験者で、権大僧都の高位者も輩出している。左端の大きな墓碑には七代夫婦と八代の名が記されている。

「大教院隆光優婆塞(八代) 大越家前常楽院金龍法印(七代) 梵室妙唄優波夷(七代妻)」②馬神山荒神 馬神新開遊水池西端ポンプ小屋北にある。③犬岩 ④亀岩 ともに海中にあり。犬岩はかつてはもっと犬らしかったとのことである。

胡神社 海岸 南端・岩の上 潮の引いた時海岸からいくしか道はない。

馬神城跡 西側が二の丸。東側の頂上が本丸。⑦道隆寺隣の鳥居

岩風呂跡、⑧月読社、⑨青峯さん、⑩長門明神、⑪広島屋家訓の碑

厳島神社(明神さん)盃状穴(重井3個の内、他はフラワセンター隣岡本家白塀の下、金蓮寺資料館前の元一本松のもの)。村井戸 ?黄幡社 玉の浦大明神 花壇の上か? 

妙法蓮華経の碑(重井3基の内、他は長崎播磨バス停、細島茶臼山登山口)

藤井神社 ⑮天秀庵城跡 船奉行片山数馬が住んだ。周辺の字が片山。

山の神池跡 天秀庵城の堀の跡が溜池になり、その後防火用水池として大出酒店隣、丸高商店隣、理髪店(現ふじみや横)隣の防火用水池と連結していた。 ⑯山の神社 吉充が青木城の裏鬼門として設置。

毘沙門堂 吉充が青木城築城の際、宮地大炊助が三原瀬戸の守護仏として毘沙門天を祀って作ったお堂が善興寺の前身と言われる。毘沙門天像は中庄成願寺にある。⑰善興寺[墓地]長右衛門家の墓 月海湛玉上座「元文三戊午 月海湛玉上座 十月十四日」。元文三年は1738年。文字をなぞると字が上手になるとか、頭が良くなるとか言われ、墓参の時はお参りする 林蔵立像(墓) 伝六さん供養塔、初代因島戸長柏原啓三郎墓 歴代住職の塚 [善通寺周辺]六地蔵 重井の義人長右衛門・弓瀬宗十郎末広講の碑 廻国供養塔[境内]慈母観音 芋地蔵堂 法華塔 道元禅師六百年供養碑 廻国供養塔・子安地蔵 鐘楼 血分経塚 閻魔堂 [参道]仁王像 瓢箪と駒 門前の石柱法華経の文字が彫られている) 先祖代々の菩提碑   

 [p.43]へ続く

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第11回            34                      Vol.2(2017)

5。干拓について 6         

 峯松勅夫編『重井町史年表』(平成十一年改定版1999)、重井町文化財協会により重井の干拓についてまとめる。

 寛永3年(1623)長右衛門新開(青木)造成。

 明暦3年(1657)川口新開(太田、一町田)造成。

 寛文11年(1671)郷新開造成。

 元禄10年(1697)青木沖新開(青木新開)検地。

 宝永2年(1705)井浜(伊浜)新開造成。

 宝暦10年(1760)宮沖新開検地。

 安政4年(1857)重井東港竣工(発起人 柏原水軒)。

 

6。道元禅師へのアプローチ その11 帰依仏法僧宝 

 修証義の第一章 総序(第二節)。人身得ること難し、佛法値うこと希なり。

 これは『正法眼蔵』の「帰依仏法僧宝」にでてきます。仏法僧を三宝と言いますから「帰依三宝」と呼んでも良いでしょう。岩波文庫の『正法眼蔵(四)』p.264に以下のようにあります。

 かくのごとくなるがゆゑに、いたづらに邪道に帰せざらんこと、あきらかに甄究(けんきゅう)すべし。たとひこれらの戒にことなる法なりとも、その道理、もし孤樹・制多等の道理に符合せらば、帰依することなかれ。人身(にんじん)うることかたし、佛法あふことまれなり。いたづらに鬼神の眷属(けんぞく)として一生をわたり、むなしく邪見の流類(るるい)として多生(たしょう)をすごさん、かなしむべし。

 

7。弘法大師空海へのアプローチ その11 広島の黄金山と仁保  

 古代の水銀産地の名残が地名に残っている県内の土地について是非記しておかないといけないのは仁保と黄金山である。あるいは、仁保の黄金山というべきかも知れないが、どちらにせよ両者とも興味深い。なぜなら、黄金山はかつては島で仁保島と呼ばれた。それが、なぜ黄金山か。金を取り出すには水銀が必要であるから、水銀産地を示唆する仁保の黄金山ということになる。松田壽男『丹生の研究』のp.182には以下のように記されている。

 212mの黄金山の6合目から8合目の土壌には0.0014%の水銀が含まれていた。

「仁保という島名、ないし町名が、この種の土壌から起こったことは、まったく明瞭ではないか。しかも黄金山の北裾にまわると本浦の部落には、その北はずれに山を西に負って、木立に包まれた邇保姫神社が鎮まる。仁保と邇保とが共通であったことが判明するが、同時にこの女神がニフヅヒメ(にうつひめ)であることも明白である。」

 

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第11回         43                            Vol.2(2017)

 

8。小学校史 その6 教育令の時代 

 明治12年(1879)から明治19年(1886)年の小学校令までが教育令の時代である。それまでの「学制」がフランスの教育に範をとったのに対して「教育令の時代」ではアメリカの教育制度を参考にしたものであった。この改革の中心は文部大輔田中不二麿を中心にして行われた。

 この改革の特徴は、学区制を廃止して、各町村が公立小学校を設置し、中央の干渉を少なくしたものであった。しかし、「自由教育令」と称されるほど、国家統制のゆるいものだったので、就学率の低下、学校建築の中止などが起こり、明治13年12月には「改正教育令」が公布された。

 

9。瀬戸内寂聴さんと因島

 瀬戸内寂聴さんが、かつて因島に来られた。昭和46年3月1日発行の『現代日本の文学23 林芙美子 平林たい子集』(学習研究社)の「尾道因島 林芙美子文学紀行」の取材のためである。「取材中の瀬戸内晴美氏(因島・土生港にて)」という説明のついた写真(p.17)などと短文が掲載されている。写真の服装から季節は冬のようだが、3月発行の本にその年の冬ではいかにも慌ただしい。前年の冬かもしれない。また、湧田佑氏の旅行ガイドには「北西部の重井あたりは季節に行けば除虫菊などが咲き乱れて楽しい島である。」とある。(月報36 p.10)また、「カメラマンの取材日記」(月報36 p.12)によると学研写真部の生井公男氏が同行した。

 

10。能島花見(紹介)

 能島水軍の本拠地能島は無人島で定期船はありません。しかし、4月の花見に臨時便が出て渡れます。国史跡の能島城跡を見学する絶好の機会です。今年は4月1日、2日です。 

  

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◉本会資料の一部をブログ「いんのしまみち」で公開しています。

◉次回、4月18日(火)10:00~11:15、重井公民館。11:45因島モール郵便局付近集合。宝地谷、どんじ石(昼食)、小丸城跡、日野山砦、百凡池。(昼食持参)(申し込み不要。一方だけの参加も可能です。資料代100円。)第二家老稲井氏が守った小丸城跡とその周辺を巡ります。

◉実習部会を開催します。(①イギス豆腐を作る ②八朔大福を作る ③しょうゆ飯を作る)など、順次募集します。 連絡先を記して個別に登録して下さい。材料費が若干必要です。

◉編著者(連絡先):柏原林造 

 

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福山市 走島

日本のみち 福山市のみち 

 

島には水軍城はなく、系譜の上からは、因島村上氏の亜流ということになる。

森本繁、「村上水軍全紀行」、新人物往来社、2009、p.257

 

 

 

 

 

 

 

 

日本のみち 福山市のみち

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第10回 2017.2.21.(共催:因島白滝公園保勝会)

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[p.17-18 画像版]    [p.32 画像版]  [p.19-24]  [p.25-26]  [p.27]  [p.28]  [p.29]  [p.30-31]

壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録)

 

1。白滝山の現状について  因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

 2月1日冨永副市長が来られました。崩壊した石垣などを視察されました。山門下の石垣の工事が間もなく始まります。七月完成の予定です。工事車両の往来等が予想されます。ご協力をお願いします。

 

2。白滝山について  その10 [p.19-26]

 今回は、柏原舒延著「霊峯白滝山の沿革」については、

(45)保勝は拡充(下)           「反省ノ泉」昭和47年4月1日発行 第233号

(46)一観の遺墨(上)           「反省ノ泉」昭和47年5月1日発行 第234号

(47)一観の遺墨(中)           「反省ノ泉」昭和47年6月1日発行 第235号

(48)一観の遺墨(下)           「反省ノ泉」昭和47年7月1日発行 第236号

(49)一観本州伝道代行主任峯松嘉七伝

                                              「反省ノ泉」昭和47年8月1日発行 第237号

(50)三五号~四九号のまとめ    「反省ノ泉」昭和47年9月1日発行 第238号

の6回分を読む。今回で全50回が完結する。これまでも様々な形で柏原舒延氏の研究が部分的に公開されてきたが、その典拠である「反省ノ泉」の連載は現在では目にすることは難しい。白滝山研究の基本文献として活用していただければ幸いである。資料を提供して頂いたご子息の柏原太久男氏に感謝致します。[p.19-24]

 また併せて、宇根家文書『一観居士因縁記(越後本)』を見る。これは文政九年の伝六さんの著作を越後国三條町の皆川佐助氏が筆写したものである。これまでにも何度か出てきたものの原本である。[p.25-26] 

 

3。村上水軍について その10  

 前回まで、第二家老稲井氏について述べたので、今回は第一家救井氏のことを記す。  

 第8回p.127(Vol.1)に述べたように、稲井氏の祖とともに伊予に来た。「明徳4年(1393)義宗・義治は出羽羽黒山を去って伊予大島村上師清のもとに来り、村上師清はこれを手厚く遇し」た。(稲井幸晴『稲井家』p.263)。義宗は新田義貞の三男であるが嫡子であり、義治が新田義貞の弟脇屋義助の子である。義宗、義治は宮方(南朝)の総大将、副大将であったから、北朝にとっては朝敵ということで行き場はなかったわけである。義宗は武蔵国所沢で死亡したという説の他、義治とともに阿波に落ち延びたという説などがあり、上記のものも伝説に近い。景浦勉校訂『予陽河野家譜』p.130では予州(伊予)に逃れ河野氏を頼ったとの伝承が記されている。また『能島来島因島由来記』(因島市史料第六集)p.64には「救井氏村上名乗ル由来」という一文があって、義宗・義治の子供達が師清によって養われ、師清の妹と姪を娶せ婿養子として村上家一族の家中としたことが記されている。「新田義宗男左衛佐義久八代後胤救井左衛佐貞義ト云テ備後因島家青影城代ヲ勤務知行二千三百貫ヲ領ス是ハ村上備中守義光ノ甥也天正十三年義光ニ随身而長州ニ至ル慶長八年癸卯三月十八日於長州八田門病死ス 法名 新田院鐡貞道義居士ト贈ル」。(p.65)

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第10回            17                      Vol.2(2017)

 

4。青陰城跡史跡巡り    [p.27]     

  土生長崎城、向島余崎城、重井青木城と因島村上氏の本城とその周辺を探訪してきたので、今回から家臣が守った砦を中心に探訪する。今回は第一家老救井氏が守った青陰城跡関連の史跡を訪ねる。なお、国土地理院地図には「青影山」とあり、また城跡としては「青陰」と表現されることが多いようだからそれに倣う。中庄、田熊の境界をなす青影山は因島のほぼ中心にあり、三庄方面を除けばほぼ全域の眺望がきき、戦略的にも重要な位置にある。そのせいか、かつては村上義弘の居城だったとの伝説があり、因島村上水軍といえば青陰城というイメージが長い間支配してきた。しかし、村上義弘は因島にはいなかったとする説が有力で最近では村上義弘のことを言う人はいない。なお、青陰城と村上義弘をめぐる問題については、森本繁『村上水軍興亡史』(学研M文庫)に詳しい。また、青陰城は因島の村上氏の本城ではなく、第一家老救井氏が守ったとされる。なお、第一家老救井氏の主たる分担が戦闘であったと考えられており、そのことが伝承や地名と関連するものだと思われる。青陰城跡への登山道は中庄側にもあるが、今回は田熊側から登る。

山神神社(山ノ神社) 田熊岡野氏の祖と考えられている今岡通宗の創建と伝えられる。今回はここを起点に、奥の院、六松公園、青陰城跡と巡る。山神神社を出て、最初に右の崖上に弘法大師像がある。「うがい大師」と呼ばれる。「人の世の幸福は健康であり、毎日うがいをしましょう 施主岡野和六」。さらに登ると、水掛け地蔵尊弘法大師修行石仏、子育て地蔵尊、願成就記念石碑、長寿一本杉がある。

水掛け地蔵尊 「施主天台宗教師新崎道隆 昭和十二年十一月吉日」。

奥の院 さらに登ると磨崖仏の下の建物が奥の院である。すなわち、島四国65番三角寺奥の院で、金光山仙遊寺という名前が付いている。磨崖仏をお堂で覆っている。かつて山伏の修行場だったと言われるだけあって大岩の絶壁がある。その大岩に不動明王と観世音菩薩が彫られている。大正3年の完成。

青陰城跡 頂上の平坦地の広さを見れば、時代はわからないが、かなり大規模の砦があったと考えてもよく、興味深い。『能島来島因島由来記』(因島市史料第六集)p.39には村上備中守源義光の項に「因島青影城主立花乃余崎城鞆ノ津城外九城兼ル」とある。昭和33年4月発行の松浦儀作『因島村上と青影城址』(因島市青影観光会)p.31では「元弘年間村上義弘が在城してから、慶長元年十代村上吉亮が世を終わるまで約二百六十年間、因島村上氏累代の城址であって、現在は次の如く荒寥の中にも在りし昔を物語って居る」と記している。また、昭和43年発行の『因島市史』p.364にも「島の本拠は、中庄の青影であろう」と記してある。そして、昭和55年1月発行の『日本城郭大系 第13巻 広島・岡山』(新人物往来社)のp.161に「今岡氏は、南北朝期に活躍した伊予衆であり、青陰城の築城とかかわりがあるように思える。その後、村上氏が因島を支配下に収め、長崎・青木・余崎各域との見張・連絡の場所として用いていたと思われるが、因島村上氏が小規模ながらも戦国大名としての性格を持つようになると、その本城的役割を果たすようになったと考えられる」とある。これが平成8年9月発行の田中稔氏の『因島史考』(因島市文化財協会)p.28では「もとは長崎、青木、余崎などの見張り連絡の場所であったが、因島村上氏戦国大名の性格をもつと、本城の役割を果たすようになったものであろうと云われている」となる。ほとんど同じ内容ではあるが、この段階で「見張り連絡の場所であったが、」に変わり、「小規模ながらも」が抜ける。推定に過ぎない文が、引用が重なると次第に現実味を帯びてくる実例である。、「戦国大名としての性格」「本城の役割」という表現は著者の「戦国大名」「本城」と断定することへのためらいがこもった表現である。また、見通しのよいことと、狼煙や旗で連絡できることを単純に考えてはいけない。距離や天候のことを考えると多くの情報を伝達できるとは考えられない。余崎、青木と長崎との連絡と記されているが、因島村上氏最後の40年あまりのことに過ぎない。  [p.32]へ続く

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第10回            18                      Vol.2(2017)

  これらのことを理解すれば、『因島史考』p.28「後、村上水軍の第一家老救井太郎左衛門尉義親の居城と伝える」に従い青陰城跡は第一家老救井氏が守ったという程度の理解に留めておくのがよいだろう。

 中庄側に一の木戸と屋敷跡があったと言われている。二の木戸は中庄田熊の両登山道の合流点付近。田熊側の屋敷跡は今岡屋敷(三峰城)と呼ばれ救井氏の居城だったと言われている。

今岡屋敷(三峰城)は地図に記したM1とM2のどちらとも確定できなかった。

 山頂は登ったところが二ノ丸と一段下がった屋敷跡、中央から西が本丸で、少し下がった西端が三ノ丸とされる。(『因島史考』p.28に拠る)。

 

5。奥山 三十三観音霊場 住原俊治    [p.28]

 

6。干拓について 5         [p.29]

 重井中学校の副読本中島忠由『義農五代の苦心 村上長右衛門傳』のp.15~17の抜粋である。長右衛門知義のことを記した本は少ないので、干拓とはあまり関係ないが載せておく。

 

7。道元禅師へのアプローチ その10  法華天法華

 修証義の第一章 総序(第一節)。唯一大事因縁と究盡(ぐうじん)すべし。

 これは『正法眼蔵』の「法華天法華」にでてきます。95巻本では17にあります。水野弥穂子校注『正法眼蔵(四)』(岩波文庫)ではp.429にあります。

 法華の正宗をあきらめんことは、祖師の開示を唯一大事因縁と究尽すべし、「餘乗」にとぶらはんとすることなかれ。いま法華転の実相実性実体実力、実因実果の如是なる、祖師より以前には、震旦国にいまだきかざるところ、いまだあらざるところなり。(p.437)

 

8。弘法大師空海へのアプローチ その10 安芸の入野 

 前回の今高野山、前々回の高野町はいずれも古代の水銀産地で、かつ高野山とのゆかりがあった。今回は古代の水銀産地の名残が地名に残っている県内の土地について記す。ただ、高野山との関係は見られない。

 松田壽男『丹生の研究』のp.348には県内には「入野」の地名が2箇所紹介されている。「入野」は「丹生野」であり、古代の水銀産地に他ならない。

 一つは山陽本線の駅名と川の名に残っている旧名賀茂郡入野村と、旧名賀茂郡志和町入野である。後者はイリノと呼ぶ。またその中間にある八本松町の正力は、元は川上村正力であった。正力の清滝という山中の伝説が紹介されている。「ウルシが千本、朱が千本、朝日が当たらぬ夕日が射さぬところに埋めてある」。朱が朱砂、すなわち硫化水銀HgSに他ならない。

 

9。小学校史 その5 教育令の時代 [p.30-31]

 明治12年(1879)から明治19年(1886)年の小学校令までが教育令の時代である。明治12年(1979)の卒業証書の写真が柏原充正『重井の電話史談』、p.140に掲載されているので転載しておく。また、学校沿革史に 明治15年(1882)2月重井小学校校舎を須越に移転。5月学校の等位を中等科と定む。 とある。その時の校舎配置図を載せる。(『白滝教育百年のあゆみ』p.30)

また、明治14年(1881)小学校教則綱領(抄)(明治十四年五月四日文部省達第十二号)の第一章第五条の 一 「三章掲クル所ノ小学科ノ区分、学期、授業ノ日及時、各等科程度ニ基キ課程ヲ設クルノ一例ヲ示ス左表ノ如シ」の左表を載せる。

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◉次回、3月21日(火)10:00~11:15、重井公民館。11:30重井公民館出発。馬神城跡(昼食)、厳島神社、天秀庵城跡、山神社、善興寺。(昼食持参)(申し込み不要。一方だけの参加も可能です。)

第三家老末長氏が守った馬神城跡と船奉行片山氏が

住んだ天秀庵城跡やその周辺を巡ります。

◉編著者(連絡先):柏原林造 

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第10回         32                           Vol.2(2017)

 

[p.17-18 画像版]    [p.32 画像版]  [p.19-24]  [p.25-26]  [p.27]  [p.28]  [p.29]  [p.30-31]

 

いんのしまみち しげいみち おおはまみち なかのしょうみち とのうらみち かがみうらみち むくのうらみち みつのしょうみち はぶみち たくまみち 日本のみち

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第9回 2017.1.17.(共催:因島白滝公園保勝会)

いんのしまみち しげいみち おおはまみち なかのしょうみち とのうらみち かがみうらみち むくのうらみち みつのしょうみち はぶみち たくまみち 日本のみち

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壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録)

 

[p.1-2](画像版)     [p.15-16](画像版) [p.3-8] [p.9-11] [p.12] [p.13] [p.14]

1。白滝山の現状について  因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

 12月30日に元旦初日の出の準備をし、吹流しを設置。元旦は区長会3名、管理人、保勝会全員で5時30分からお接待準備。7時30分頃初日の出。約350人参拝。8日吹流し撤収。町内掲示板へ公益財団法人日本離島センターによって「しま山100選」に選ばれたことを発表。表参道山門前の石垣修復工事が2月から行われる予定。瀬戸内タイムズ1月7日号で上記の一部が報道された。

2。白滝山について  その9 [p.3-11]

 今回は、柏原舒延著「霊峯白滝山の沿革」については、

(39)一観百回忌供養        「反省ノ泉」昭和46年7月1日発行 第224号

(40)保勝は実行(上)           「反省ノ泉」昭和46年8月1日発行 第225号

(41)保勝は実行(中)           「反省ノ泉」昭和46年10月1日発行 第227号

(42)保勝は実行(下)           「反省ノ泉」昭和46年11月1日発行 第228号

(43)保勝は拡充(上)           「反省ノ泉」昭和46年12月1日発行 第229号

(44)保勝は拡充(中)           「反省ノ泉」昭和47年1月1日発行  第230号

の6回分を読む。なお、39回は、番号に誤植がある。上記のようになる。[p.3-8]

 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の五番組(一部)と四天王、二王再建、地所賣渡証を見る。現在との関係は次のようになる。五番組:ト区、ホの三・四班。今回で終了。[p.9-11] 

  (39)一観百回忌供養 では伝六さんの法事が曹洞宗の僧侶によって行われている。伝六さんは新しい宗教「一観教」を創始したと言われているが、地元では曹洞宗の一信徒として理解していたことになる。すなわち「一観教」は曹洞宗から抜け出たものではなかったと考えてよい。観音経(法華経の第25)を重んじるとともに、儒教道徳的な要素も強く、そのことは修養団奉誠会との親近性があり、「平和一神」碑が日本で最初に建てられたことや、この連載が会誌に掲載されたこととも関係があるだろう。白滝山は最高部に阿弥陀三尊像を配していることからわかるように阿弥陀経の極楽浄土を具現し、宗派を超えて多くの人々へ開かれたものである。

 

3。村上水軍について その9  

   第2家老稲井氏の因島来島については前回紹介した。稲井幸晴「稲井家」p.266以下によってその後の様子を見てみよう。

 20代(因島3代)助之(通明)。21代(因島4代)治之(頼親)、河野家に仕えている。河野家の島方衆として活躍した。長男家治、次男助芳ともに因島の家老になっている。22代(因島5代)家治(頼綱)、厳島合戦以後多くの戦いに参加。慶長5年(1600)の伊予松前城攻の負傷で死去。宮地家の養子となっていた次男忠明も討死。23代(因島6代)治憲(頼方)、伊予松前城攻に参加。関ヶ原敗戦後、因島村上氏6代吉充、吉国父子の長州移封に従う。治憲・嘉治(24代)、利治(22代家治の弟)・忠治父子が従った。この時稲井家は上屋敷(旧大土生宮地家宅)を宮地忠明(治憲の弟)の子に与え、別邸対潮閣は家族及び家臣達の菩提を弔うため佛院として遺族に開放した。現在の対潮院である。このことにより、土生の庄屋を勤めた大土生宮地家が稲井氏の屋敷跡に住んだ理由がわかる。大土生宮地家から竹之内宮地家が出、三庄へ移り庄屋、割庄屋を勤めた。また、竹之内宮地家から分かれて中庄に戻り、宮地家を再興して中庄の庄屋になる。宮地家の発展の元に稲井家の大きな影響があったことを伺うことができる。

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第9回                   1                           Vol.2(2017)

          

4。重井東部史跡巡り   [p.12]     

   因島村上氏6代吉充は向島余崎城に13年いて、その後永禄12年(1569)重井青木城に移った。小早川隆景新高山城から浮城(三原城)へ移るに当たって、重井にいた杉原氏を去らせて吉充を向島から移らせたと言われている。杉原氏が神辺城主になるに当たって、吉川氏が押し隆景は反対したという経緯があるので、隆景は杉原氏とは相性が合わなかったのかもしれない。吉充の青木移城によって因島全体が村上氏の支配下になったということであるが、戦いがあったわけではなく、小早川支配地の配置替えだと思えば良い。関ヶ原敗戦後に毛利氏に従ったように、この頃にはすでに小早川の配下になっていたことがうかがえる。今回は青木城、白滝山を中心に重井東部の史跡を巡る。大出神社 青木山東の中腹にある。

青木城跡 所在地が諸本には重井町竜王山となっている。頂上に竜王社があるように、字(あざ)が竜王山だったのだろう。それが県史跡に指定された時の所在地として登録されたためにこのように記されている。したがって間違いではないが竜王山は権現山のことであるので、青木城には使わないほうがよい。なお竜王山と呼ばれるところは雨乞いが行われたところである。

 東浜には島四国87番長尾寺がある。88番大窪寺とともに深浦が軍用地となったために現在地へ移転した。元の位置はわからない。87番は重井中付近、88番は深浦新開住吉神社付近ではなかろうか。長尾寺の北には、柏原水軒翁築港碑、波止寄付録碑、金比羅大権現石柱がある。住吉大明神、稲荷大明神の文字。また対岸(港の西側)の元・こまたきの発着所付近に本郷沖新開住吉神社、郵便局裏に青木沖新開住吉神社がある。

伊浜の土手。現在西側1/3が残っている。遊水池側に側道があった。

伊浜新開住吉神社。伊浜新開遊水地ポンプ場前。

宮沖新開住吉神社。ゴミステーション横。

金比羅燈籠 「金比羅大権現」「天保九戌十一月吉日」の文字。

白滝山五百羅漢石柱。サンロード(株)社長村上弘文氏寄贈。平成27年3月設置。その経緯は第8回Vol.1 p.136-137に掲載。

白王山八幡神社 青木城から丑寅(艮)の方角で鬼門になる。山の神は裏鬼門。随身像、随身門、逆針羅針盤、境内神社(高良神社、松尾神社、稲荷神社、伊勢神社、金神、生眼八幡宮、白滝龍神社)。逆針羅針盤。東(卯)と西(酉)が逆になっていて、北(子)を舳先に合わせて固定すると船の進行方向を磁針が指すことになる。船から降ろすと使い道はないが、天井に吊り下げて下から見れば、その地の方位を示すのに役立つ。佐島八幡神社に説明書が奉納されている。舵の柄を卯の方向に向けるのが卯の舵(面舵)、酉の方向に向けるのが酉舵(取舵)。

棟札に「大旦那 源吉充 勧進者 平土讃守柏原忠安七十八才 永禄十二年九月廿一日」などの文字がある。「因島史考」p.73 柏原忠安のことは宮地賢氏所蔵文書(「因島市史」p.881)にもあり、事実だと思われる。重井柏原氏の祖ではあるが、それ以前のことはわからない。関ヶ原合戦後、忠安の長男は長州へ、次男は川口土井へ移り川本家の祖となる。三男は早稲田に住み医者となる。上坂蔵本の祖。四男は福山水野氏へ。

伝六ロード  伝六旧居、初五郎旧居、林蔵家。八丁丁石。峰松氏祖五郎左衛門家、川口柏原氏祖川本家、丸本家系村上氏祖丸本屋、丸本屋旧居山下屋、村上神社(丸小山)。丸上(家紋)本家の丸本屋は現在山下屋のところにあった。その前(南)の山が丸本家の土地であったから丸本山である。略して丸山となり周囲一帯の地名も丸山となった。一町田・太田を埋め立てるのに削られ小さくなったので丸小山と呼ばれるようになったであろう。宇根家からの分家が山下屋の下に住んだ。丸山分家と呼ばれ、後に丸山が屋号になったのが柏原仁文氏宅である。

大浜往還(古道)第三久保田橋重井間の道路は白滝山の北側を通ってフラワーラインのロータリー経由の他南側を通るものがある。しまなみ海道開通後にできた側道が大浜往還(新道)。開通以前の塞の神のところから入った切り通しのあった道路が大浜往還(旧道)。[p.15]へ続く

 

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第9回            2                         Vol.2(2017)

 

この建設費も久保田権四郎氏の寄付による。八重子島対岸中庄よりの新設道路開通記念碑に記されている「自大濱村至重井村 大池奥崩岩線」の道である。しまなみ海道の下で消滅している。大浜往還(古道)は旧道以前の峠道である。大浜から重井小高等科へ通うには、大浜往還(古道)、縄手の土手、須越樋口道を通った。したがって縄手の土手とつながる大師堂下から第三久保田橋までを大浜往還(古道)とする。今回は、途中で白滝山登山道へ入る。

白滝山観音堂 吉充が観音堂を建て備後灘の見張所とした。その際、細島にいた山伏の頭目常楽院静金(じょうこん)大徳を堂主とした。安政6年(1859)再建された。観音堂の前に「十字架観音像」の表示があるが、これは間違い。第8回でも記したように、左手に掲げているのは十字架ではなく仏具であることは向島岩屋巨石、三庄観音寺三十三観音等を見れば明白。

くんぐり道 表参道の南側の登山道。島四国85番八栗寺、くぐり岩がある。八栗寺の隣から白滝山奥の院への参道がある。奥の院の上には見事な絶壁が張り出している。雨が降ると岩の上を流れて白い滝のようになったので、白滝山と名付けられたと言われるが、本当だろうか。谷川健一「日本の地名」(岩波新書)には「中国地方から西ではタキの地名は断崖を指す。」(p.87)と書いてある。こちらの方がわかりやすい。また、上から秋葉神社、道了大権現、愛宕神社の小祠がある。妙覚道了は修験道の奥義を極めた室町時代の禅僧。ここの絶壁が山伏の修行場として使用されたのかもしれない。

仁王門 山門には違いないが紛らわしいので、観音堂広場の、石段を登ったところを山門と呼び、こちらは「仁王門」で通したい。

伝六さん 伝六さんと堂守の墓所。「通称墓所」ではなく「通称伝六さん」で正式には「墓所」であろう。

表参道 丁石のある青木道からを表参道と称すべきであろうが、郵便局から大師堂下までが青木道と呼ばれているので、大師堂下からとすべきで、山門までが表参道。西洋館(因島ペンション白滝山荘)の塀沿いに上がる階段道が従来の表参道であり、無くなった訳ではない。百華園からの道が合流する。1丁から北側の道が裏参道で表参道は右へ登る。

 

 

5。土生町 大宝寺 四国八十八ケ所霊場      住原俊治[p.13]

 

6。干拓について 4          [p.14]

 重井中学校の副読本中島忠由「義農五代の苦心 村上長右衛門傳」のp.12~15の抜粋である。

 

7。道元禅師へのアプローチ その9  生死

 修証義の第一章 総序(第一節)。ただ生死(しようじ)すなわち涅槃(ねはん)とこころえて生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分(ぶん)あり。

 これは「正法眼蔵」の「92巻生死」にでてきて、前回の少し後にあります。禅文化学院の「現代訳正法眼蔵」p.23には次のように訳されています。

 ただ生死がそのまま解脱の境地であると心得て、苦しいものとしていとい捨てることなく、安らかなものとして求め願うことの無いときに、始めて生死への執着を離れることができる。

 また要約として、生死から逃れようとしても、あるいは生死を愛し求めても、解脱することはできない、と書かれています。

 

8。弘法大師空海へのアプローチ その9 広島県高野町 

 高野山あるいは空海と水銀の関係を見ているのだが、県北に高野町があるので、ここと高野山との関係が気になるので見てみたい。松田壽男「丹生の研究」から要点だけを抜き出す。「延喜

 

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第9回            15                         Vol.2(2017)                   

式」神明帳に備後国でただ一つの官社とされている爾比都売神社は脱字があり、爾保都比売神社と考え、広島市仁保町の邇保姫神社などと同系統と考える。「大日本史」に久代村に高野権現の祠あり、其の地を爾比都山と曰う、後西城町に遷る、とある。久代村は広島岡山県境の権現山の西側で久代高野と呼ばれている。爾比都山は丹生の山、すなわち丹を産出する山の意味に他ならない。権現山が古代の丹生山であり、その歴史が朱砂の産出とその女神ニウヅヒメ祭祀都によって開幕した。しかし、後代朱砂の産出が絶えて、ニウヅヒメ(丹生明神)の正体が不明となって高野明神だけが高野権現の形でここに留まっていたが、修験の衰退とともに部落の名がコウヤからタカノに変わった。(p.192-194)すなわち、水銀の原料である朱砂の産地であり、丹生一族が来て朱砂採掘とともに丹生明神を祀った。併せて高野明神も祀ったということであろう。その後の展開は上記の通りとなる。

 

9。小学校史 その4 教育令の時代

 明治5年から明治11年までの、いわゆる「学制」の時代7年あまりの後、明治12年(1879)9月29日「太政官布告四〇」で「日本教育令」が発布された。これは明治13年(1880)の「改正教育令」、明治18年の「再改正教育令」を経て明治19年(1886)年の小学校令まで続く。「小学校令の時代」以前が「教育令の時代」である。まず大枠である、法令についてみよう。

明治12年(1979)の 教育令:学齢8箇年(最低4箇年)。 

教育令(明治十二年九月二十九日太政官布告第四十号)

第三条 小学校ハ普通ノ教育ヲ児童ニ授タル所ニシテ其学科ヲ読書習字算術地理歴史修身等ノ初歩トス土地ノ情況ニ随ヒテ罫画唱歌体操等ヲ加へ又物理生理博物等ノ大意ヲ加フ殊ニ女子ノ為ニハ裁縫等ノ科ヲ設クヘシ

十三条 凡児童六年ヨリ十四年ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トス

第十六条 公立小学校ニ於テハ八箇年ヲ以テ学期トス土地ノ便宜ニ因リテハ此学期ヲ縮ムルコトヲ得ヘシト雖モ四箇年ヨリ短クスへカラス此四箇年ハ毎年授業スルコト必四箇月以上タルヘシ

 

明治13年(1880)の改正教育令:学齢8箇年(学期3箇年以上8箇年以下)

教育令改正(明治十三年十二月二十八日太政官布告第五十九号)

第三条 小学校ハ普通ノ教育ヲ児童二授クル所ニシテ其学科ヲ修身読書習字算術地理歴史等ノ初歩トス土地ノ情況ニ随ヒテ罫画唱歌体操等ヲ加ヘ又物理生理博物等ノ大意ヲ加フ殊ニ女子ノ為ニハ裁縫等ノ科ヲ設クヘシ但已ムヲ得サル場合ニ於テハ修身読書習字算術地理歴史ノ中地理歴史ヲ減スルコトヲ得

十三条 凡児童六年ヨリ十四年ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トス

第十六条 小学校ノ学期ハ三箇年以上八箇年以下タルヘク授業日数ハ毎年三十二週日以上タルヘシ但授業時間ハ一日三時ヨリ少カラス六時ヨリ多カラサルモノトス

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◉本会資料の一部をブログ「いんのしまみち」で公開しています。

◉次回、2月21日(火)10:00~11:15、重井公民館。12:00因島モール郵便局付近集合。山神社、磨崖仏(昼食)、六松公園、青影山、山神社。(昼食持参)(申し込み不要。一方だけの参加も可能です。)第1家老救井氏が守った青陰城跡へ田熊側から登ります。

◉編集後記:昨年8回までで、ページ数が142頁となった。このまま増え続けると不便なので、ここで1頁に戻すことにした。昨年のものと区別するために第2巻とし、行末の頁横にフッターを付すとともに、「因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料」とタイトルを変えた。この体裁は昨年分についても改定の際適用する。

◉編著者(連絡先):柏原林造

 

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第9回            16                         Vol.2(2017)  

 

[p.1-2](画像版)     [p.15-16](画像版) [p.3-8] [p.9-11] [p.12] [p.13] [p.14] 

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愛媛県今治市  大三島 おおみしまみち 

 日本のみち 愛媛県の道

 

今治市     大三島

      大三島町

       教善寺 大通寺

       大三島(東側)探訪

       岩田健母と子のミュージアム

      上浦町 甘崎城跡

 

         北側

           塩田樋門跡

           井田八幡神社

 

大三島橋

 

  

   

因島の苗字

因島の苗字のページです。

昭和62年7月1日 人口35,776名

 多い苗字と多く住んでいる町

1 村上氏・・1240戸 田熊町、重井町、土生町、中庄町、三庄町

2 岡野氏・・ 711戸 田熊町、土生町、三庄町         

3 宮地氏・・ 387戸 中庄町、三庄町、土生町 

4 箱崎氏・・ 350戸 土生町、田熊町、中庄町

5 柏原氏・・ 345戸 重井町、中庄町

6 松浦氏・・ 175戸 中庄町、三庄町

7 小林氏・・ 161戸 中庄町、土生町 

8 田頭氏・・ 141戸 中庄町、外浦町、三庄町 

9 大出氏・・ 138戸 重井町、大浜町

10 山本氏・・ 119戸 土生町、三庄町

11 藤井氏・・ 111戸 重井町、三庄町

12 峰松氏・・ 109戸 重井町

13   藤原氏・・ 104戸 田熊町、土生町

 

在間作義「因島八十八ヶ所 遍路の旅」による。      

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