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夕凪亭別館

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第10回 2017.2.21.(共催:因島白滝公園保勝会)

いんのしまみち しげいみち おおはまみち なかのしょうみち とのうらみち かがみうらみち むくのうらみち みつのしょうみち はぶみち たくまみち 日本のみち

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[p.17-18 画像版]    [p.32 画像版]  [p.19-24]  [p.25-26]  [p.27]  [p.28]  [p.29]  [p.30-31]

壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録)

 

1。白滝山の現状について  因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

 2月1日冨永副市長が来られました。崩壊した石垣などを視察されました。山門下の石垣の工事が間もなく始まります。七月完成の予定です。工事車両の往来等が予想されます。ご協力をお願いします。

 

2。白滝山について  その10 [p.19-26]

 今回は、柏原舒延著「霊峯白滝山の沿革」については、

(45)保勝は拡充(下)           「反省ノ泉」昭和47年4月1日発行 第233号

(46)一観の遺墨(上)           「反省ノ泉」昭和47年5月1日発行 第234号

(47)一観の遺墨(中)           「反省ノ泉」昭和47年6月1日発行 第235号

(48)一観の遺墨(下)           「反省ノ泉」昭和47年7月1日発行 第236号

(49)一観本州伝道代行主任峯松嘉七伝

                                              「反省ノ泉」昭和47年8月1日発行 第237号

(50)三五号~四九号のまとめ    「反省ノ泉」昭和47年9月1日発行 第238号

の6回分を読む。今回で全50回が完結する。これまでも様々な形で柏原舒延氏の研究が部分的に公開されてきたが、その典拠である「反省ノ泉」の連載は現在では目にすることは難しい。白滝山研究の基本文献として活用していただければ幸いである。資料を提供して頂いたご子息の柏原太久男氏に感謝致します。[p.19-24]

 また併せて、宇根家文書『一観居士因縁記(越後本)』を見る。これは文政九年の伝六さんの著作を越後国三條町の皆川佐助氏が筆写したものである。これまでにも何度か出てきたものの原本である。[p.25-26] 

 

3。村上水軍について その10  

 前回まで、第二家老稲井氏について述べたので、今回は第一家救井氏のことを記す。  

 第8回p.127(Vol.1)に述べたように、稲井氏の祖とともに伊予に来た。「明徳4年(1393)義宗・義治は出羽羽黒山を去って伊予大島村上師清のもとに来り、村上師清はこれを手厚く遇し」た。(稲井幸晴『稲井家』p.263)。義宗は新田義貞の三男であるが嫡子であり、義治が新田義貞の弟脇屋義助の子である。義宗、義治は宮方(南朝)の総大将、副大将であったから、北朝にとっては朝敵ということで行き場はなかったわけである。義宗は武蔵国所沢で死亡したという説の他、義治とともに阿波に落ち延びたという説などがあり、上記のものも伝説に近い。景浦勉校訂『予陽河野家譜』p.130では予州(伊予)に逃れ河野氏を頼ったとの伝承が記されている。また『能島来島因島由来記』(因島市史料第六集)p.64には「救井氏村上名乗ル由来」という一文があって、義宗・義治の子供達が師清によって養われ、師清の妹と姪を娶せ婿養子として村上家一族の家中としたことが記されている。「新田義宗男左衛佐義久八代後胤救井左衛佐貞義ト云テ備後因島家青影城代ヲ勤務知行二千三百貫ヲ領ス是ハ村上備中守義光ノ甥也天正十三年義光ニ随身而長州ニ至ル慶長八年癸卯三月十八日於長州八田門病死ス 法名 新田院鐡貞道義居士ト贈ル」。(p.65)

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第10回            17                      Vol.2(2017)

 

4。青陰城跡史跡巡り    [p.27]     

  土生長崎城、向島余崎城、重井青木城と因島村上氏の本城とその周辺を探訪してきたので、今回から家臣が守った砦を中心に探訪する。今回は第一家老救井氏が守った青陰城跡関連の史跡を訪ねる。なお、国土地理院地図には「青影山」とあり、また城跡としては「青陰」と表現されることが多いようだからそれに倣う。中庄、田熊の境界をなす青影山は因島のほぼ中心にあり、三庄方面を除けばほぼ全域の眺望がきき、戦略的にも重要な位置にある。そのせいか、かつては村上義弘の居城だったとの伝説があり、因島村上水軍といえば青陰城というイメージが長い間支配してきた。しかし、村上義弘は因島にはいなかったとする説が有力で最近では村上義弘のことを言う人はいない。なお、青陰城と村上義弘をめぐる問題については、森本繁『村上水軍興亡史』(学研M文庫)に詳しい。また、青陰城は因島の村上氏の本城ではなく、第一家老救井氏が守ったとされる。なお、第一家老救井氏の主たる分担が戦闘であったと考えられており、そのことが伝承や地名と関連するものだと思われる。青陰城跡への登山道は中庄側にもあるが、今回は田熊側から登る。

山神神社(山ノ神社) 田熊岡野氏の祖と考えられている今岡通宗の創建と伝えられる。今回はここを起点に、奥の院、六松公園、青陰城跡と巡る。山神神社を出て、最初に右の崖上に弘法大師像がある。「うがい大師」と呼ばれる。「人の世の幸福は健康であり、毎日うがいをしましょう 施主岡野和六」。さらに登ると、水掛け地蔵尊弘法大師修行石仏、子育て地蔵尊、願成就記念石碑、長寿一本杉がある。

水掛け地蔵尊 「施主天台宗教師新崎道隆 昭和十二年十一月吉日」。

奥の院 さらに登ると磨崖仏の下の建物が奥の院である。すなわち、島四国65番三角寺奥の院で、金光山仙遊寺という名前が付いている。磨崖仏をお堂で覆っている。かつて山伏の修行場だったと言われるだけあって大岩の絶壁がある。その大岩に不動明王と観世音菩薩が彫られている。大正3年の完成。

青陰城跡 頂上の平坦地の広さを見れば、時代はわからないが、かなり大規模の砦があったと考えてもよく、興味深い。『能島来島因島由来記』(因島市史料第六集)p.39には村上備中守源義光の項に「因島青影城主立花乃余崎城鞆ノ津城外九城兼ル」とある。昭和33年4月発行の松浦儀作『因島村上と青影城址』(因島市青影観光会)p.31では「元弘年間村上義弘が在城してから、慶長元年十代村上吉亮が世を終わるまで約二百六十年間、因島村上氏累代の城址であって、現在は次の如く荒寥の中にも在りし昔を物語って居る」と記している。また、昭和43年発行の『因島市史』p.364にも「島の本拠は、中庄の青影であろう」と記してある。そして、昭和55年1月発行の『日本城郭大系 第13巻 広島・岡山』(新人物往来社)のp.161に「今岡氏は、南北朝期に活躍した伊予衆であり、青陰城の築城とかかわりがあるように思える。その後、村上氏が因島を支配下に収め、長崎・青木・余崎各域との見張・連絡の場所として用いていたと思われるが、因島村上氏が小規模ながらも戦国大名としての性格を持つようになると、その本城的役割を果たすようになったと考えられる」とある。これが平成8年9月発行の田中稔氏の『因島史考』(因島市文化財協会)p.28では「もとは長崎、青木、余崎などの見張り連絡の場所であったが、因島村上氏戦国大名の性格をもつと、本城の役割を果たすようになったものであろうと云われている」となる。ほとんど同じ内容ではあるが、この段階で「見張り連絡の場所であったが、」に変わり、「小規模ながらも」が抜ける。推定に過ぎない文が、引用が重なると次第に現実味を帯びてくる実例である。、「戦国大名としての性格」「本城の役割」という表現は著者の「戦国大名」「本城」と断定することへのためらいがこもった表現である。また、見通しのよいことと、狼煙や旗で連絡できることを単純に考えてはいけない。距離や天候のことを考えると多くの情報を伝達できるとは考えられない。余崎、青木と長崎との連絡と記されているが、因島村上氏最後の40年あまりのことに過ぎない。  [p.32]へ続く

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第10回            18                      Vol.2(2017)

  これらのことを理解すれば、『因島史考』p.28「後、村上水軍の第一家老救井太郎左衛門尉義親の居城と伝える」に従い青陰城跡は第一家老救井氏が守ったという程度の理解に留めておくのがよいだろう。

 中庄側に一の木戸と屋敷跡があったと言われている。二の木戸は中庄田熊の両登山道の合流点付近。田熊側の屋敷跡は今岡屋敷(三峰城)と呼ばれ救井氏の居城だったと言われている。

今岡屋敷(三峰城)は地図に記したM1とM2のどちらとも確定できなかった。

 山頂は登ったところが二ノ丸と一段下がった屋敷跡、中央から西が本丸で、少し下がった西端が三ノ丸とされる。(『因島史考』p.28に拠る)。

 

5。奥山 三十三観音霊場 住原俊治    [p.28]

 

6。干拓について 5         [p.29]

 重井中学校の副読本中島忠由『義農五代の苦心 村上長右衛門傳』のp.15~17の抜粋である。長右衛門知義のことを記した本は少ないので、干拓とはあまり関係ないが載せておく。

 

7。道元禅師へのアプローチ その10  法華天法華

 修証義の第一章 総序(第一節)。唯一大事因縁と究盡(ぐうじん)すべし。

 これは『正法眼蔵』の「法華天法華」にでてきます。95巻本では17にあります。水野弥穂子校注『正法眼蔵(四)』(岩波文庫)ではp.429にあります。

 法華の正宗をあきらめんことは、祖師の開示を唯一大事因縁と究尽すべし、「餘乗」にとぶらはんとすることなかれ。いま法華転の実相実性実体実力、実因実果の如是なる、祖師より以前には、震旦国にいまだきかざるところ、いまだあらざるところなり。(p.437)

 

8。弘法大師空海へのアプローチ その10 安芸の入野 

 前回の今高野山、前々回の高野町はいずれも古代の水銀産地で、かつ高野山とのゆかりがあった。今回は古代の水銀産地の名残が地名に残っている県内の土地について記す。ただ、高野山との関係は見られない。

 松田壽男『丹生の研究』のp.348には県内には「入野」の地名が2箇所紹介されている。「入野」は「丹生野」であり、古代の水銀産地に他ならない。

 一つは山陽本線の駅名と川の名に残っている旧名賀茂郡入野村と、旧名賀茂郡志和町入野である。後者はイリノと呼ぶ。またその中間にある八本松町の正力は、元は川上村正力であった。正力の清滝という山中の伝説が紹介されている。「ウルシが千本、朱が千本、朝日が当たらぬ夕日が射さぬところに埋めてある」。朱が朱砂、すなわち硫化水銀HgSに他ならない。

 

9。小学校史 その5 教育令の時代 [p.30-31]

 明治12年(1879)から明治19年(1886)年の小学校令までが教育令の時代である。明治12年(1979)の卒業証書の写真が柏原充正『重井の電話史談』、p.140に掲載されているので転載しておく。また、学校沿革史に 明治15年(1882)2月重井小学校校舎を須越に移転。5月学校の等位を中等科と定む。 とある。その時の校舎配置図を載せる。(『白滝教育百年のあゆみ』p.30)

また、明治14年(1881)小学校教則綱領(抄)(明治十四年五月四日文部省達第十二号)の第一章第五条の 一 「三章掲クル所ノ小学科ノ区分、学期、授業ノ日及時、各等科程度ニ基キ課程ヲ設クルノ一例ヲ示ス左表ノ如シ」の左表を載せる。

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◉本会資料の一部をブログ「いんのしまみち」で公開しています。

◉次回、3月21日(火)10:00~11:15、重井公民館。11:30重井公民館出発。馬神城跡(昼食)、厳島神社、天秀庵城跡、山神社、善興寺。(昼食持参)(申し込み不要。一方だけの参加も可能です。)

第三家老末長氏が守った馬神城跡と船奉行片山氏が

住んだ天秀庵城跡やその周辺を巡ります。

◉編著者(連絡先):柏原林造 

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第10回         32                           Vol.2(2017)

 

[p.17-18 画像版]    [p.32 画像版]  [p.19-24]  [p.25-26]  [p.27]  [p.28]  [p.29]  [p.30-31]

 

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