夕凪亭別館

本館 http://hb8.seikyou.ne.jp/home/crystal/index.htm        博物誌インデックスhttp://hb8.seikyou.ne.jp/home/crystal/Naturalis/Naturalis001.htm        植物誌インデックス http://hb8.seikyou.ne.jp/home/crystal/plants/plant001.htm

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第2回 2016.6.21.資料 (共催:因島白滝公園保勝会) 

いんのしまみち しげいみち おおはまみち なかのしょうみち とのうらみち かがみうらみち むくのうらみち みつのしょうみち はぶみち たくまみち 日本のみち

ふるさとの歴史を学ぶ会 Vol.1 第1回資料 第2回資料 第3回資料 第4回資料 第5回資料 第6回資料 第7回資料 第8回資料 Vol.2 第9回資料 第10回資料  第11回資料 第12回資料 第13回資料   第14回資料 第15回資料 第16回資料  第17回資料 第18回資料 

 

 

 

 

壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。

(言志四録)  

[p.11-12](画像版) [p.25-26](画像版)   [p.13-16 [p.17-20]  [p.21] [p.22] [p.23] [p.24]

1。白滝山について  その2 [p.13-20]

 今回は、柏原舒延著「霊峰白滝山の沿革」については、

(4) 石仏について  「反省ノ泉」昭和43年6月1日発行 第188号

(5) 三尊者石佛群  「反省ノ泉」昭和43年7月1日発行 第189号

(6) 石佛群像    「反省ノ泉」昭和43年8月1日発行 第190号

(7) 続石佛群像   「反省ノ泉」昭和43年9月1日発行 第191号

の4回分を読む。[p.13-16]

 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」のうち冒頭から諸佛寄進、五百大羅漢佛の大濱村、中之庄村を見る。[p.17-20]  石仏の文字-寄進者-墓碑(過去帳)-他所での寄付名などの関係がわかれば興味深い。文政十年は1827年

 湊かなえさんの短編集「望郷」(文藝春秋社)には、白滝山を舞台にした作品「石の十字架」がある。雑誌掲載時の挿絵を紹介する。「オール讀物」2012年5月号。[p.14] 

 

2。村上水軍について その2 大浜の城跡をめぐって [p.21]

 因島村上水軍は天授3年(1377)村上師清が釣島箱崎浦の戦いで勝ってその子息を因島、能島、来島に配したことに由来する。これからが三島村上氏の時代で、これを後期村上水軍と呼び、それ以前が前期村上水軍の時代である。かつて青陰城主と考えられていた村上義弘は前期村上水軍の時代の人で、おそらく因島とは関係はない。

 因島村上氏は、1代吉豊(顕長)、2代吉資、3代吉光(吉充)、4代吉直、5代尚吉、6代吉充で、180年間、土生・長崎城(現・ナティーク城山)を本城とした。6代吉充は、向島・余崎城に移り、さらに重井・青木城に移った。

 大浜町には幸崎城跡と土居城跡が残っている。また、お家騒動の戦いの犠牲者を供養した千人塚がある。

 広島県、「広島県史第3編」(大正十三年、帝国地方行政学会発行)p.489には、「大浜村 幸崎山 一名土居の城、村上丹後の居、山内に小墓十基あり、千人塚と称す、又山南に大将の墓と称するあり、三尺許の自然石なり。丹後の墓なりと云ふ。」とある。(旧漢字を新漢字に改めた。)

 これに関連した記載が、「因島市史料 第一集」(因島市教育委員会発行)の「国郡志御用に付下しらべ書出帳」(p.107)にあるので、[p.21]に掲げる。

 村上丹後守吉房は因島村上氏4代村上加賀守吉直(左衛門太夫)の弟である。重井大元屋の祖とされる修理介も兄弟である。

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第2回              11                    Vol.1(2016)

 

 吉房は百島を支配下に入れ茶臼山城を築いた。その後継者村上吉高が田島の村上

範和と組んで大浜幸崎城を襲った。因島村上氏どうしの争いだから、まさにお家騒動である。永正年間(1504~1521)のことである。その時の戦死者を弔ったのが千人塚だと言われている。

 田島は因島村上氏2代村上備中入道吉資が備後守護の山名時煕から田島地頭職をもらい、以後因島村上氏の下で村作りが行われた。[p.21]に松井輝昭「因島村上家文書を読む」(因島市教育委員会因島市文化財協会発行)のp.17を掲載する。しかし、後に田島は能島村上氏に属するようになる。このお家騒動と関係があるのだろう。

 

3。大出万吉翁と重井バプテスト協会

 青木茂「因島市史」に、次のように記されている。「基督教が因島に布教をはじめたのは、独逸人ビッケル師が最初である。」(p.890)

 また、中島忠由「因島地方一万年史」には、「ビッケル船長がつくった六七名の船員のなかに、因島重井の大出万吉(1843–1920)」がいる、とある。(p.341)

 ビッケル船長と万吉翁とのことは沢野正幸「船長ビッケル 島々の伝道者」(日本バプテスト同盟発行)のp.125-131に記されている。

 「大出万吉の生涯」というブログ(https://familysearch.org/photos/stories/12083796)があったので紹介しておく。

 

   大出万吉の生涯→万吉の息子梅市の記録· 2014年12月10日 ·

 大出家は広島県御調郡因島重井村字東濱字川口に先々代農業と兼業に海運業を開き当地より、四国は高松湊、上は大阪湊、下は下関、博多に問屋を取扱い致し居りしに、明治15年頃、都合により大阪北区上福島町に移転いたすことになった。

 父万吉その妻ミヤ、長梅市と連れ子(御重、御ヤス、御ふゆ、徳次郎)、

万吉の両親(梅吉、光子) 計9人の家族でした。

 その当時は、業に人力車を曳き致しており、その後八百物商を営み、車の後押しを梅市は致しておりました時代、明治18年7月頃に大阪東の河内村より雨ふり15日続き大水となり淀川に流れ北区天満町上福島は全部水害を被り避難を御寺堂御宮社に耶蘇教があり、その時大出父母全員、北区中之島、北一致教会堂に10間ほどおり、牧師吉岡弘義氏の説教によりキリストの救いを受けたのであります。

 それより父万吉は熱心なクリスチャンとして、業界、友人を沢山、内々に導きました。

 明治36年生地広島重井村に帰り、独自のキリスト教を村人に伝道して居りました。その頃の時、神キリストの導きに依り伝道船福音丸が回り来まして、船長ビッケル氏、牧師伊藤巳之助氏により、父万吉も伝道者となりました。

 [p.25]へ続く。

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第2回              12                   Vol.1(2016)

 

 また、「重井町史年表 平成十一年改定版1999」(重井町文化財協会)には、大

正9(1920)年に私立重井幼稚園開設(日本バプテスト同盟経営)(昭和57年学校

法人重井学園経営と改称)、翌年、園舎完成、とある。

 私立重井幼稚園が早くからある理由の一つが大出万吉翁の存在であろう。なお、村上貢「しまなみ人物伝」(海文堂出版)や「瀬戸田町史 通史編」p.660にもビッケル船長との交流が紹介されている。

4。道元禅師へのアプローチ その2「正法眼蔵」〈弁道話〉より

仏法には、修証これ一等なり。いまも証上の修なるゆゑに、初心の弁道すなはち本証の全体なり。かるがゆゑに、修行の用心をさづくるにも、修のほかに証を待つ思いなかれとをしふ、直指の本証なるがゆゑなるべし。すでに修の証なれば、証にきわなく、証の修なれば、修にはじめなし。 岩波文庫 p.28) 

 主著「正法眼蔵」の序章ともいうべき「弁道話」の7番目の問答である。修証(修行と悟り)は一つだというのが本旨。後半の現代語訳は、「また悟りといっても、修行のうえの悟りであるから、悟りには果てしがなく、修行といっても、悟りのうえの修行であるから修行には始まりがない。」(玉城康四郎訳、「日本の名著 7道元」、p.108)

 

5。弘法大師空海へのアプローチ その2「空海の風景」より [p.22]

  弘法大師空海真言密教の大成者、あるいは真言宗の開祖であるが、ただそれだけでは空海は理解できない。もっと大きな存在である。一言で言えば天才。万能の天才であった。その一面が語学の才である。それを育んだ環境を、司馬遼太郎空海の風景」(中公文庫)では佐伯氏という家とその周辺に求める。司馬さんは「花神」の終わりの方で、語学は技術であると書いている。明治期の教育学の本にも書いてあることだから、必ずしも司馬さんのオリジナルな発想ではないと思うが、空海の時代にも、道元の時代にも、村田蔵六大村益次郎)の時代にも、そして現在でも語学が技術であることに変わりはない。

 

6。因島の潜水艦事故 -小説に出てくる因島- [p.23] 

 吉村昭「総員起シ」(文春文庫)は沈没した「伊号第三三潜水艦」を引き揚げる話である。浮揚に成功し因島で解体されることになったが、解体前に悲惨な事故が起こった。昭和28年のことである。

 

7。江戸時代の農作物 [p.24]

 江戸時代は何を食べていたのだろうか、という質問が前回(第1回)あった。「安永三年 村立実録帳 重井村」(「因島市史料 第一集」、p.1)に農作物の一部が出てくる。稈(カン):わら、穀物の茎、乾燥したむぎわら。安永三年は1775年。

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第2回              25                    Vol.1(2016)

 

8。重井村四国八十八か所札所について

 重井村四国八十八か所札所については、昨年の重井町民文化祭で、「文字確定」と「位置推定」とに分けて提示した(柏原、住原、2015)。今年度、因島重井町文化財協会でも検討してくださることになり、4月19日(7名)、4月25日(11名) それぞれ午後約4時間巡礼し、新たな発見もあった。ここでは、解読できた文字を記し、資料とする。

1番 竺和山 霊山寺。「霊山寺 末廣講中」山田。島四国83番一宮寺内。

2番 日照山 極楽寺。「二ばん 極楽寺 願主 末廣講中」山田。

3番 亀光山 金泉寺。「三ばん 金泉寺 願主 末廣講中」山田。

4番 黒巌山 大日寺。「第四番 大日寺 再建 末廣講中 丈平 幼吉」有浜。島四国82番根香寺横。

5番 無尽山 地蔵寺。「五番 地蔵寺」小林。駐在所前。島四国80番国分寺内。

6番 温泉山 安楽寺。「六ばん 安楽寺 廿一人組」須越。

9番 正覚山 法輪寺。「九」須越奥池西(畑の中)。      

11番 金剛山 藤井寺。「十一ばん 藤井寺 願主」上坂。12番の下。

12番 摩盧山 焼山寺。「焼山寺 又古二」上坂。権現山登山口付近。

13番 大栗山 大日寺。「一之宮」上坂。11番の下。参考:御詠歌「阿波の国一の宮とはゆうだすき」

14番 盛寿山 常楽寺。「十四番 常楽寺 九人組」上坂。柏原神社からの通路。

15番 薬王山 国分寺。「国分寺」上坂。蔵本前。

16番 光耀山 観音寺。「十六番」上坂。源兵衛屋前。「十六はん 観音寺 十人組」川口。権兵衛屋裏。

17番 瑠璃山 井戸寺。「十七ばん 井戸寺 願主 大本屋」公民館よりやや東。

18番 母養山 恩山寺。「十八 恩山寺」善興寺入口。

19番 橋池山 立江寺。「十九番 立江寺」善興寺境内。芋地蔵堂前。

21番 舎心山 大龍寺。「廿一ばん 太龍寺 十二人」山ノ神。山神社の西。  

22番 白水山 平等寺。「平等寺 十四人」厳島神社東。八大さん庭。

23番 医王山 薬王寺。「廿三番 薬師如来」片山。甲山寺から少し西。

                   (今回分の改定も含めて、以下次回。) 

*************************************

◉本会資料の一部をブログ「いんのしまみち」で公開しています。

◉訂正[p.2]「(左)大正九年三月九日」→「(左)大正九年三月廿九日」

◉次回、7月19日(火)10:00~11:30、重井公民館。12:50重井西港集合。13:00発フェリーで細島へ。茶臼山城跡、浜田神社、共同墓地、荒神社、細島一号石棺、三十三観音等。帰りフェリー:14:00、16:00、17:40 。フェリー代往復300円。

(申し込み不要。一方だけの参加も可能です。)

◉編著者(連絡先):柏原林造 

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第2回              26                    Vol.1(2016)

 

 

 リンク 

  大浜探訪  

  おおはまみち
   内海町 内海大橋 天神山城跡 常楽院 町の街並み 

  百島町 茶臼山城跡

(https://familysearch.org/photos/stories/12083796)

 

  

 

 写真➡️悲運の伊33号潜水艦 三庄ドックでの最期の姿 読者から寄せられた写真 | せとうちタイムズ

 

 

 

いんのしまみち しげいみち おおはまみち なかのしょうみち とのうらみち かがみうらみち むくのうらみち みつのしょうみち はぶみち たくまみち 日本のみち

 

 

ふるさとの歴史を学ぶ会 Vol.1 第1回資料 第2回資料 第3回資料 第4回資料 第5回資料 第6回資料 第7回資料 第8回資料 Vol.2 第9回資料 第10回資料  第11回資料 第12回資料 第13回資料   第14回資料 第15回資料 第16回資料  第17回資料 第18回資料