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夕凪亭別館

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第9回 2017.1.17.(共催:因島白滝公園保勝会)

いんのしまみち しげいみち おおはまみち なかのしょうみち とのうらみち かがみうらみち むくのうらみち みつのしょうみち はぶみち たくまみち 日本のみち

 

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壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録)

 

[p.1-2](画像版)     [p.15-16](画像版) [p.3-8] [p.9-11] [p.12] [p.13] [p.14]

1。白滝山の現状について  因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

 12月30日に元旦初日の出の準備をし、吹流しを設置。元旦は区長会3名、管理人、保勝会全員で5時30分からお接待準備。7時30分頃初日の出。約350人参拝。8日吹流し撤収。町内掲示板へ公益財団法人日本離島センターによって「しま山100選」に選ばれたことを発表。表参道山門前の石垣修復工事が2月から行われる予定。瀬戸内タイムズ1月7日号で上記の一部が報道された。

2。白滝山について  その9 [p.3-11]

 今回は、柏原舒延著「霊峯白滝山の沿革」については、

(39)一観百回忌供養        「反省ノ泉」昭和46年7月1日発行 第224号

(40)保勝は実行(上)           「反省ノ泉」昭和46年8月1日発行 第225号

(41)保勝は実行(中)           「反省ノ泉」昭和46年10月1日発行 第227号

(42)保勝は実行(下)           「反省ノ泉」昭和46年11月1日発行 第228号

(43)保勝は拡充(上)           「反省ノ泉」昭和46年12月1日発行 第229号

(44)保勝は拡充(中)           「反省ノ泉」昭和47年1月1日発行  第230号

の6回分を読む。なお、39回は、番号に誤植がある。上記のようになる。[p.3-8]

 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の五番組(一部)と四天王、二王再建、地所賣渡証を見る。現在との関係は次のようになる。五番組:ト区、ホの三・四班。今回で終了。[p.9-11] 

  (39)一観百回忌供養 では伝六さんの法事が曹洞宗の僧侶によって行われている。伝六さんは新しい宗教「一観教」を創始したと言われているが、地元では曹洞宗の一信徒として理解していたことになる。すなわち「一観教」は曹洞宗から抜け出たものではなかったと考えてよい。観音経(法華経の第25)を重んじるとともに、儒教道徳的な要素も強く、そのことは修養団奉誠会との親近性があり、「平和一神」碑が日本で最初に建てられたことや、この連載が会誌に掲載されたこととも関係があるだろう。白滝山は最高部に阿弥陀三尊像を配していることからわかるように阿弥陀経の極楽浄土を具現し、宗派を超えて多くの人々へ開かれたものである。

 

3。村上水軍について その9  

   第2家老稲井氏の因島来島については前回紹介した。稲井幸晴「稲井家」p.266以下によってその後の様子を見てみよう。

 20代(因島3代)助之(通明)。21代(因島4代)治之(頼親)、河野家に仕えている。河野家の島方衆として活躍した。長男家治、次男助芳ともに因島の家老になっている。22代(因島5代)家治(頼綱)、厳島合戦以後多くの戦いに参加。慶長5年(1600)の伊予松前城攻の負傷で死去。宮地家の養子となっていた次男忠明も討死。23代(因島6代)治憲(頼方)、伊予松前城攻に参加。関ヶ原敗戦後、因島村上氏6代吉充、吉国父子の長州移封に従う。治憲・嘉治(24代)、利治(22代家治の弟)・忠治父子が従った。この時稲井家は上屋敷(旧大土生宮地家宅)を宮地忠明(治憲の弟)の子に与え、別邸対潮閣は家族及び家臣達の菩提を弔うため佛院として遺族に開放した。現在の対潮院である。このことにより、土生の庄屋を勤めた大土生宮地家が稲井氏の屋敷跡に住んだ理由がわかる。大土生宮地家から竹之内宮地家が出、三庄へ移り庄屋、割庄屋を勤めた。また、竹之内宮地家から分かれて中庄に戻り、宮地家を再興して中庄の庄屋になる。宮地家の発展の元に稲井家の大きな影響があったことを伺うことができる。

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第9回                   1                           Vol.2(2017)

          

4。重井東部史跡巡り   [p.12]     

   因島村上氏6代吉充は向島余崎城に13年いて、その後永禄12年(1569)重井青木城に移った。小早川隆景新高山城から浮城(三原城)へ移るに当たって、重井にいた杉原氏を去らせて吉充を向島から移らせたと言われている。杉原氏が神辺城主になるに当たって、吉川氏が押し隆景は反対したという経緯があるので、隆景は杉原氏とは相性が合わなかったのかもしれない。吉充の青木移城によって因島全体が村上氏の支配下になったということであるが、戦いがあったわけではなく、小早川支配地の配置替えだと思えば良い。関ヶ原敗戦後に毛利氏に従ったように、この頃にはすでに小早川の配下になっていたことがうかがえる。今回は青木城、白滝山を中心に重井東部の史跡を巡る。大出神社 青木山東の中腹にある。

青木城跡 所在地が諸本には重井町竜王山となっている。頂上に竜王社があるように、字(あざ)が竜王山だったのだろう。それが県史跡に指定された時の所在地として登録されたためにこのように記されている。したがって間違いではないが竜王山は権現山のことであるので、青木城には使わないほうがよい。なお竜王山と呼ばれるところは雨乞いが行われたところである。

 東浜には島四国87番長尾寺がある。88番大窪寺とともに深浦が軍用地となったために現在地へ移転した。元の位置はわからない。87番は重井中付近、88番は深浦新開住吉神社付近ではなかろうか。長尾寺の北には、柏原水軒翁築港碑、波止寄付録碑、金比羅大権現石柱がある。住吉大明神、稲荷大明神の文字。また対岸(港の西側)の元・こまたきの発着所付近に本郷沖新開住吉神社、郵便局裏に青木沖新開住吉神社がある。

伊浜の土手。現在西側1/3が残っている。遊水池側に側道があった。

伊浜新開住吉神社。伊浜新開遊水地ポンプ場前。

宮沖新開住吉神社。ゴミステーション横。

金比羅燈籠 「金比羅大権現」「天保九戌十一月吉日」の文字。

白滝山五百羅漢石柱。サンロード(株)社長村上弘文氏寄贈。平成27年3月設置。その経緯は第8回Vol.1 p.136-137に掲載。

白王山八幡神社 青木城から丑寅(艮)の方角で鬼門になる。山の神は裏鬼門。随身像、随身門、逆針羅針盤、境内神社(高良神社、松尾神社、稲荷神社、伊勢神社、金神、生眼八幡宮、白滝龍神社)。逆針羅針盤。東(卯)と西(酉)が逆になっていて、北(子)を舳先に合わせて固定すると船の進行方向を磁針が指すことになる。船から降ろすと使い道はないが、天井に吊り下げて下から見れば、その地の方位を示すのに役立つ。佐島八幡神社に説明書が奉納されている。舵の柄を卯の方向に向けるのが卯の舵(面舵)、酉の方向に向けるのが酉舵(取舵)。

棟札に「大旦那 源吉充 勧進者 平土讃守柏原忠安七十八才 永禄十二年九月廿一日」などの文字がある。「因島史考」p.73 柏原忠安のことは宮地賢氏所蔵文書(「因島市史」p.881)にもあり、事実だと思われる。重井柏原氏の祖ではあるが、それ以前のことはわからない。関ヶ原合戦後、忠安の長男は長州へ、次男は川口土井へ移り川本家の祖となる。三男は早稲田に住み医者となる。上坂蔵本の祖。四男は福山水野氏へ。

伝六ロード  伝六旧居、初五郎旧居、林蔵家。八丁丁石。峰松氏祖五郎左衛門家、川口柏原氏祖川本家、丸本家系村上氏祖丸本屋、丸本屋旧居山下屋、村上神社(丸小山)。丸上(家紋)本家の丸本屋は現在山下屋のところにあった。その前(南)の山が丸本家の土地であったから丸本山である。略して丸山となり周囲一帯の地名も丸山となった。一町田・太田を埋め立てるのに削られ小さくなったので丸小山と呼ばれるようになったであろう。宇根家からの分家が山下屋の下に住んだ。丸山分家と呼ばれ、後に丸山が屋号になったのが柏原仁文氏宅である。

大浜往還(古道)第三久保田橋重井間の道路は白滝山の北側を通ってフラワーラインのロータリー経由の他南側を通るものがある。しまなみ海道開通後にできた側道が大浜往還(新道)。開通以前の塞の神のところから入った切り通しのあった道路が大浜往還(旧道)。[p.15]へ続く

 

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第9回            2                         Vol.2(2017)

 

この建設費も久保田権四郎氏の寄付による。八重子島対岸中庄よりの新設道路開通記念碑に記されている「自大濱村至重井村 大池奥崩岩線」の道である。しまなみ海道の下で消滅している。大浜往還(古道)は旧道以前の峠道である。大浜から重井小高等科へ通うには、大浜往還(古道)、縄手の土手、須越樋口道を通った。したがって縄手の土手とつながる大師堂下から第三久保田橋までを大浜往還(古道)とする。今回は、途中で白滝山登山道へ入る。

白滝山観音堂 吉充が観音堂を建て備後灘の見張所とした。その際、細島にいた山伏の頭目常楽院静金(じょうこん)大徳を堂主とした。安政6年(1859)再建された。観音堂の前に「十字架観音像」の表示があるが、これは間違い。第8回でも記したように、左手に掲げているのは十字架ではなく仏具であることは向島岩屋巨石、三庄観音寺三十三観音等を見れば明白。

くんぐり道 表参道の南側の登山道。島四国85番八栗寺、くぐり岩がある。八栗寺の隣から白滝山奥の院への参道がある。奥の院の上には見事な絶壁が張り出している。雨が降ると岩の上を流れて白い滝のようになったので、白滝山と名付けられたと言われるが、本当だろうか。谷川健一「日本の地名」(岩波新書)には「中国地方から西ではタキの地名は断崖を指す。」(p.87)と書いてある。こちらの方がわかりやすい。また、上から秋葉神社、道了大権現、愛宕神社の小祠がある。妙覚道了は修験道の奥義を極めた室町時代の禅僧。ここの絶壁が山伏の修行場として使用されたのかもしれない。

仁王門 山門には違いないが紛らわしいので、観音堂広場の、石段を登ったところを山門と呼び、こちらは「仁王門」で通したい。

伝六さん 伝六さんと堂守の墓所。「通称墓所」ではなく「通称伝六さん」で正式には「墓所」であろう。

表参道 丁石のある青木道からを表参道と称すべきであろうが、郵便局から大師堂下までが青木道と呼ばれているので、大師堂下からとすべきで、山門までが表参道。西洋館(因島ペンション白滝山荘)の塀沿いに上がる階段道が従来の表参道であり、無くなった訳ではない。百華園からの道が合流する。1丁から北側の道が裏参道で表参道は右へ登る。

 

 

5。土生町 大宝寺 四国八十八ケ所霊場      住原俊治[p.13]

 

6。干拓について 4          [p.14]

 重井中学校の副読本中島忠由「義農五代の苦心 村上長右衛門傳」のp.12~15の抜粋である。

 

7。道元禅師へのアプローチ その9  生死

 修証義の第一章 総序(第一節)。ただ生死(しようじ)すなわち涅槃(ねはん)とこころえて生死としていとふべきもなく、涅槃としてねがふべきもなし。このときはじめて生死をはなるる分(ぶん)あり。

 これは「正法眼蔵」の「92巻生死」にでてきて、前回の少し後にあります。禅文化学院の「現代訳正法眼蔵」p.23には次のように訳されています。

 ただ生死がそのまま解脱の境地であると心得て、苦しいものとしていとい捨てることなく、安らかなものとして求め願うことの無いときに、始めて生死への執着を離れることができる。

 また要約として、生死から逃れようとしても、あるいは生死を愛し求めても、解脱することはできない、と書かれています。

 

8。弘法大師空海へのアプローチ その9 広島県高野町 

 高野山あるいは空海と水銀の関係を見ているのだが、県北に高野町があるので、ここと高野山との関係が気になるので見てみたい。松田壽男「丹生の研究」から要点だけを抜き出す。「延喜

 

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第9回            15                         Vol.2(2017)                   

式」神明帳に備後国でただ一つの官社とされている爾比都売神社は脱字があり、爾保都比売神社と考え、広島市仁保町の邇保姫神社などと同系統と考える。「大日本史」に久代村に高野権現の祠あり、其の地を爾比都山と曰う、後西城町に遷る、とある。久代村は広島岡山県境の権現山の西側で久代高野と呼ばれている。爾比都山は丹生の山、すなわち丹を産出する山の意味に他ならない。権現山が古代の丹生山であり、その歴史が朱砂の産出とその女神ニウヅヒメ祭祀都によって開幕した。しかし、後代朱砂の産出が絶えて、ニウヅヒメ(丹生明神)の正体が不明となって高野明神だけが高野権現の形でここに留まっていたが、修験の衰退とともに部落の名がコウヤからタカノに変わった。(p.192-194)すなわち、水銀の原料である朱砂の産地であり、丹生一族が来て朱砂採掘とともに丹生明神を祀った。併せて高野明神も祀ったということであろう。その後の展開は上記の通りとなる。

 

9。小学校史 その4 教育令の時代

 明治5年から明治11年までの、いわゆる「学制」の時代7年あまりの後、明治12年(1879)9月29日「太政官布告四〇」で「日本教育令」が発布された。これは明治13年(1880)の「改正教育令」、明治18年の「再改正教育令」を経て明治19年(1886)年の小学校令まで続く。「小学校令の時代」以前が「教育令の時代」である。まず大枠である、法令についてみよう。

明治12年(1979)の 教育令:学齢8箇年(最低4箇年)。 

教育令(明治十二年九月二十九日太政官布告第四十号)

第三条 小学校ハ普通ノ教育ヲ児童ニ授タル所ニシテ其学科ヲ読書習字算術地理歴史修身等ノ初歩トス土地ノ情況ニ随ヒテ罫画唱歌体操等ヲ加へ又物理生理博物等ノ大意ヲ加フ殊ニ女子ノ為ニハ裁縫等ノ科ヲ設クヘシ

十三条 凡児童六年ヨリ十四年ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トス

第十六条 公立小学校ニ於テハ八箇年ヲ以テ学期トス土地ノ便宜ニ因リテハ此学期ヲ縮ムルコトヲ得ヘシト雖モ四箇年ヨリ短クスへカラス此四箇年ハ毎年授業スルコト必四箇月以上タルヘシ

 

明治13年(1880)の改正教育令:学齢8箇年(学期3箇年以上8箇年以下)

教育令改正(明治十三年十二月二十八日太政官布告第五十九号)

第三条 小学校ハ普通ノ教育ヲ児童二授クル所ニシテ其学科ヲ修身読書習字算術地理歴史等ノ初歩トス土地ノ情況ニ随ヒテ罫画唱歌体操等ヲ加ヘ又物理生理博物等ノ大意ヲ加フ殊ニ女子ノ為ニハ裁縫等ノ科ヲ設クヘシ但已ムヲ得サル場合ニ於テハ修身読書習字算術地理歴史ノ中地理歴史ヲ減スルコトヲ得

十三条 凡児童六年ヨリ十四年ニ至ル八箇年ヲ以テ学齢トス

第十六条 小学校ノ学期ハ三箇年以上八箇年以下タルヘク授業日数ハ毎年三十二週日以上タルヘシ但授業時間ハ一日三時ヨリ少カラス六時ヨリ多カラサルモノトス

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◉本会資料の一部をブログ「いんのしまみち」で公開しています。

◉次回、2月21日(火)10:00~11:15、重井公民館。12:00因島モール郵便局付近集合。山神社、磨崖仏(昼食)、六松公園、青影山、山神社。(昼食持参)(申し込み不要。一方だけの参加も可能です。)第1家老救井氏が守った青陰城跡へ田熊側から登ります。

◉編集後記:昨年8回までで、ページ数が142頁となった。このまま増え続けると不便なので、ここで1頁に戻すことにした。昨年のものと区別するために第2巻とし、行末の頁横にフッターを付すとともに、「因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料」とタイトルを変えた。この体裁は昨年分についても改定の際適用する。

◉編著者(連絡先):柏原林造

 

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第9回            16                         Vol.2(2017)  

 

[p.1-2](画像版)     [p.15-16](画像版) [p.3-8] [p.9-11] [p.12] [p.13] [p.14] 

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