夕凪亭別館

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第6回 2016.10.18.(共催:因島白滝公園保勝会)

いんのしまみち しげいみち おおはまみち なかのしょうみち とのうらみち かがみうらみち むくのうらみち みつのしょうみち はぶみち たくまみち 日本のみち

 

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壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録)

 

1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

10月4日の中国新聞「海賊の記憶①」で紹介された。また、10月2日午前、ちゅーピー子ども新聞の取材を受けた。表参道山門下石垣修復方法について、しまおこし課から諮問があったので区長会と連名で回答した。白滝山フォトコンテストのポスターと応募要項の配布を開始した。因島観光協会のホームページにも掲載。

 

2。白滝山について  その6 [p.93-100]

 今回は、柏原舒延著「霊峯白滝山の沿革」については、

(24)一観の功過自知録(続)    「反省ノ泉」昭和45年2月1日発行 第208号

(25)一観伝道物語         「反省ノ泉」昭和45年4月1日発行 第210号 

(26)一観伝道物語         「反省ノ泉」昭和45年5月1日発行 第211号 

(27)一観の功過自知録(ラジオで放送さる)        

                「反省ノ泉」昭和45年6月1日発行 第212号

(28)一観伝道物語         「反省ノ泉」昭和45年7月1日発行 第213号

(29)観音講再興の由来       「反省ノ泉」昭和45年8月1日発行 第214号

の6回分を読む。[p.93-98]

 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の重井村貳番組(一部)を見る。現在との関係は次のようになる。二番組:ロ区の山田・有浜班、ハ区、ニ区の須越・須越奥班。[p.99-100] 

 

3。村上水軍について その6  [p.101-103]

    因島村上氏の系譜のうち、田中稔因島史考」のp.116-118を掲載した。丸本家、長右衛門家など他書と異なるところもあるが、わかりやすいのでまずこれを紹介する。長右衛門については代数を加えた。

田島分家。一代吉豊は田島地頭職を宛行(あてが)われ子息四郎吉則を田島へ住ませた。四郎吉則が田島の町づくりをするが、後に能島村上氏に属する。

 

大浜分家。大浜幸崎城主村上吉房は四代吉直の弟である。 

百島分家。百島茶臼山城主村上義高は大浜幸崎城主吉房の嫡子である。

岩城分家。岩城八幡山城主村上敬吉は六代吉充の弟。

鞆分家。鞆古城山城主村上亮康は六代吉充の弟。

田熊分家。竹島城主村上四郎左衛門直吉は六代吉充の弟岩城八幡山城主敬吉の子である。

 

4。田熊村四国    住原俊治     [p.104-105]

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5。田熊史跡巡り      [p.106]

 天授3年(1377)霜月15日の釣島箱崎浦の戦いの跡は田熊にもあるので関連史跡を巡る。併せて周辺の史跡も探訪する。

菅原神社(天神山城跡) 延喜年間(901年ごろ)菅原道真太宰府に左遷された途中、立ち寄ったことを記念して建久年間(1190年ごろ)に天満宮を祀った。また応永30年(1423)に尾道吉和鳴滝山城を落城してきた宮地大炊助明光が住んだ。北と東に4カ所の廓があった。樹高20m、周囲約7m、樹齢900年余りの楠は市の天然記念物(昭和36年指定)である。

大田熊 六代吉充の弟岩城八幡山城主村上敬吉の子竹島城主四郎左衛門直吉が島前城を居城とした。直吉を祖とし、神官、庄屋などを勤めた。田熊小学校の前身である久敬舎が慶応元年に村上萬之介により大田熊に開設された。

田熊小学校跡 重井小学校とともに明治6年因島の最初の公立小学校として誕生した。また慶応元年以来の前史もある長い歴史を持つ尾道市立田熊小学校は平成27年3月に閉校して尾道市因島南小学校となった。

亀甲山八幡神社 村上直吉らが現在地に築造。因島南部で唯一の八幡神社であり、田熊、土生、三庄の総鎮守神「三荘八幡宮」として崇められた。文政年間に火災。安政5年(1858)再建。本殿は三間社流造、屋根中央に千鳥破風。母屋丸柱は六百年を越す檜材。平面・妻面には動植物の多様な彫刻が組み込まれている。江戸末期の成功な神社建築で因島を代表する建造物である。昨年大修理が行われた。拝殿は明治42年のものであり、元の拝殿は絵馬舎として右側に移された。天保6年、あるいは安政5年に御神体を移した仮殿の跡が神踞石である。右手の因島護国神社因島遺族会が昭和41年に建立した。樹高10m以上、樹齢800年以上と言われるヤマモモは市の天然記念物(昭和36年指定)である。

浄土寺 岡野氏の菩提寺であった「善福寺」を起源とする。天正5年(1577)に村上氏の菩提寺であった長源寺が消失したので、村上直吉が岡野氏とはかって大改修をして真言宗に改めた。寛永3年(1750)全焼。天保3年(1832)再建。直吉墓、大田熊家墓地、岡野氏先祖碑、妙泰夫人墓などを見る。

岡野明神・藤原神社 天授3年(1377)の釣り島箱崎浦の戦いで、中庄茶臼山城主大鳥義康の弟宗義などが戦死した地と伝えられる。田熊岡野氏の祖である岡野対馬藤原通宗は元の名は今岡対馬守通宗という河野氏の子孫である。通宗には、この時戦死したという説と160年後天文6年(1537)霜月15日に亡くなったという二つの説がある。なぜ岡野に変えたのか、なぜ藤原神社が隣にあるのか、という疑問とともに謎である。

馬の墓 釣島箱崎浦の戦いでこのあたりまで逃げてきて馬を乗り捨てたので、則末という地名になったという説がある。宝暦十四年の村立実録帖に出てくる小社馬神は藤原神社のこととされているが、馬の墓とか馬塚と呼ばれるものの可能性はないだろうか。

 

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島四国60番横峰寺 本四国が石鎚山近くの高所にあり、それに倣ったものか、大山トンネル近くの高所にある。現在は少し低いところに新築移転された。

春日神社 樫平宇賀之神社のこと。田熊農業発祥の地と言われる。

道標「右土生三庄道 左西浦重井道」と書かれた道標。竜王山と山伏山の間の峠(今は横山隧道が通っている)を経て、西浦峠へ通じている。

金栗池 安政柑発祥の地碑 田熊は八朔だけでなく、安政柑も発祥の地である。

弁財天 宮島より勧請されたものという。現在の拝殿は平成13年新築されたもの。

 

6。干拓について  [p.107]

 小学校社会科副読本「わたしたちのまち 因島」1994年3月p.109-112を読む。4年生の重井の干拓についての話である。

 

7。道元禅師へのアプローチ その6  何事も修行

 道元禅師が宋に留学した時、港で上陸許可を待っていた頃、食事係の老僧が椎茸を買いに来た。食事係のことを典座(てんぞ)という。その老典座に道元が、そういう煩わしいことはやめて座禅でもしておいたほうが良いでしょうと言った。すると、老典座はあなたは修行とは何かわかっていないと、笑った。それで道元は修行とは何か悟ったいう。

 今でも永平寺では、座禅やお経を読むことだけが修行ではなく、掃除をしたり食事をしたりその準備をしたりすることまで、すべてが修行だという。仕事でも家庭でも細々とした、いわゆる雑用の多さは多くの人が日々経験している。雑用こそが本務であり生活そのものだと、この挿話は教える。 

 

8。弘法大師空海へのアプローチ その6 「請来目録」

 空海は20年の留学予定を2年で切り上げ大同元年(806年)10月、博多津に帰ってきた。そして10月22日付で朝廷に「請来目録」を提出した。最澄と違って2年で帰るというのは法律違反であったから、物質的な面だけでもこれだけの成果を上げたのだから・・・という自負に似た弁明の意味もあったと思う。また、3月に桓武天皇崩御し、平城天皇が即位していたのであるから、なおさら自己を売り込む必要があったにちがいない。空海の苦しい立場は大宰府観世音寺で入京の許しが降りるのを2年ほど待っていることからも伺える。

 

9。柏原学・柏原正兄弟   [p.108]

 京都でシンポ工業(株)(現・日本電産シンポ:資本金25億92百万円、売上高443億円、社員2410名)を作った柏原学・柏原正兄弟は重井町川口のトウスヤで生まれた。 日本電産シンポは、1952年4月に我が国初の「無段変速機」メーカーとして誕生した、「トラクション技術分野」が得意な会社です。 また、その無段変速機の技術を伝統産業に融合させ、世界で初めて陶芸用電動ろくろを開発し、現在の陶芸文化の発展に貢献をした会社でもあります。(同社のHPより)

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 柏原学氏が発明した「リングコーン無段変速機」は数々の発明賞に輝き、現在も製造販売されている。

 トウスヤとは唐臼(トウウス、カラウス)屋のことで、農業の傍ら、依頼に応じて唐臼を設置しに行くようなことをしていたのでついた屋号だと思われる。トウスヤは峰松神社参道の横にある。家の前には大浜往還(古道)が通っており、大浜から重井尋常小学校の高等科へ通った児童の通学路であったから、久保田権四郎氏のことも当然耳に入ったことであろう。また、道沿いに重井村四国77番道隆寺がある。なお、柏原学氏の名は、公民館中庭にある「重井教育整備事業に関する寄附者」の石碑に「一 金百万円也 宇治市 柏原学」と見える。

 資料は、1963年のシンポ工業(株)の会社案内「会社のあらまし」より抜粋。

 

10。小学校史 その1

 寺小屋や私塾によって行われていた庶民教育が明治維新後、公教育となり、やがて義務教育となる。

 明治の公教育の精神は明治元年3月14日の「五ヶ条の御誓文」に発し、制度としては明治5年8月3日太政官布告の「学事奨励に関する仰出書」、及び同日発布の文部省布達十三別冊「学制」による。なお、これはフランスの制度を規範としたものであった。

 広島県では、明治6年4月12日白浜権参事官通達で小学校設立願を提出させた。一六小区の因島では、「振徳舎」(重井村善興寺、教師沼田良蔵)と「研機舎」(後に「尚純舎」に変更)(田熊村浄土寺、教師村上万之助)の二か所が許可された。なお、田熊村では慶応元年に私塾の「久敬舎」が大田熊に開設されており、前身となった。

 以上が因島における公教育の始まりである。(参考:「因島市史」p.891)

 

11。トランペット鼓隊50周年記念誌制作委員会  事務局 柏原裕

 9月28日の準備委員会を経て、10月10日に第1回重井小学校トランペット鼓隊50周年記念誌制作委員会が開かれた。委員長:柏原幸子元重井小校長、副委員長:岡野良子元因北小校長、梶田勇司重井小教頭、柏原正和重井小PTA会長、顧問:深見直彦重井小校長。事務局 柏原裕(事務局長)、村上明嗣、上馬場伸子、柏原広雄、柏原林造 とし、年代別制作委員は順次追加することが決まった。写真、思い出、出演行事等の資料を収集し、年度内の発行を目指す。ご協力をお願いします。 

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