夕凪亭別館

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第7回 2016.11.15.(共催:因島白滝公園保勝会)

いんのしまみち しげいみち おおはまみち なかのしょうみち とのうらみち かがみうらみち むくのうらみち みつのしょうみち はぶみち たくまみち 日本のみち

第7回20161115

p.111-112]  [p.125-126]  [p.113-116]  [p.117-118]  [p.119]  [p.120-121]  [p.122-123]  [p.124

第7回20161115

レジメ[p.111-112]  [p.125-126

1。白滝山の現状について                  [p.111-112] 

2。白滝山について  その7            [p.113-116][p.117-118

3。村上水軍について その7                                              [p.111-112] 

4。土生史跡巡り                                       [p.119]

5。江戸時代の物価   住原俊治                                    [p.120-121]

6。道元禅師へのアプローチ その7  修証義               p.111-112

7。弘法大師空海へのアプローチ その7  空海と水銀 [p.125-126

8。干拓について その2               [p.122-123]

9。小学校史 その2                    [p.124]

 

2016年Vol.1 第1回資料 第2回資料 第3回資料 第4回資料 第5回資料 第6回資料 第7回資料 第8回資料 総目次

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壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録)

 

1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

 10月29日、30日、重井公民館で行われた町民文化祭で、十大弟子修復工事の様子などの映像をDVD放映した。 

 11月6日の中国新聞、ちゅーピー子ども新聞に掲載された。11月5日の瀬戸内タイムズに写真コンテストの概要が掲載された。11月中旬尾道ケーブルテレビの取材予定。

 

2。白滝山について  その7 [p.113-118]

 今回は、柏原舒延著「霊峯白滝山の沿革」については、

(30)一観信仰関係記述一六冊同記録一○○通所在

              「反省ノ泉」昭和45年9月1日発行 第215号

(31)一観本州に伝道        「反省ノ泉」昭和45年10月1日発行 第216号

(32)一観本州に伝道(続)    「反省ノ泉」 昭和45年11月1日発行 第217号

(33)山陰伝道名残り        「反省ノ泉」昭和45年12月1日発行 第218号 

の4回分を読む。[p.113-116]

 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の重井村貳番組(一部)、三番組、四番組(一部)を見る。現在との関係は次のようになる。二番組:ロ区の山田・有浜班、ハ区、ニ区の須越・須越奥班。三番組:ニ区の上坂・薮の下、ホ区の一・ニ班、チ区。四番組:ヘ区。[p.117-118] 

 

3。村上水軍について その7  

    因島村上氏の五家老が島内各所に住んだ。青陰城、第1家老救井氏。土生小丸山城、第2家老稲井氏。重井馬神城、第3家老末永氏。中庄大江城、第4家老宮地氏。三庄土居城、第5家老南氏。

 

4。土生史跡巡り [p.119]         

 天授3年(1377)霜月15日の釣島箱崎浦の戦いに勝った村上師清はその子吉豊を現在ナティーク城山のある小島に住ませた。因島村上氏の来島である。以来、180年間6代にわたって、この長崎城を本城とした。その後、向島余崎城に13年間本城を移し、さらに永禄12年(1569)重井青木城に移った。今回は長崎城跡の関連史跡を巡る。併せて周辺の史跡も探訪する。

鯖大師 大正10年5月、村井才吉氏が自宅に建てる。昭和33年3月因島病院前へ移し、さらに昭和52年現在地へ移築。30トン。

111

大岩大神 第二公園と第三公園の間にある。

島四国45番岩屋寺 本四国は久万高原町にあり、少し登ったところの大岩に接して建つ。それに倣ってここも周辺に巨岩が多く、明治45年に村井才吉氏寄進の弘法大師像と不動明王座像の大磨崖仏がある。

島四国番外札所高野山奥の院 結願所。隣に水子地蔵がある。近くに五重塔、千手観音磨崖仏など。

最上稲荷分室 岡山市高松稲荷を勧請したもの。

聖天堂 大聖歓喜天で、聖天様と呼ばれている。石鎚神社併祀。

菅生山大宝寺 真言宗醍醐寺派。島四国44番大寶寺がある。供養塔。

荒神山城跡 長崎城の控えの要害。天狗山へ続く。居住地としても重要な位置である。荒神社(祭神須佐之男命)、城山神社(祭神大山積神)、金の神社などがある。大宝寺墓地の上には空堀の跡らしきものが見られる。

長崎城跡 かつて城山クラブがあったところで、現在ナティーク城山となっている。海に面した丘であるが当時は小島だったと推定される。因島村上氏は180年間6代にわたって、ここを本城とした。岩礁にはピット(係船用杭穴)があったが、現在はわからない。また、船隠しがあった。城山神社(祭神大山積神)がかつてあった。

弓場馬場跡 弓場医院の駐車場に説明板がある。大宝寺の墓地から見ると、この辺りが海岸線だったことがよくわかる。

島四国46番浄瑠璃寺 弓場馬場跡近くがよく見える。お堂の中の地蔵は願掛した後、持ち上がれば叶うという面白い縁起がある。また近くにはお大師水(高野山の杖の水)があり、手を洗うと幸運がつかめると言われている。

 

5。江戸時代の物価   住原俊治 [p.120-121]

 

6。道元禅師へのアプローチ その7  修証義

 曹洞宗のお経である修証義は道元禅師の主著「正法眼蔵」を元に明治23年に編集されたものである。今回は第一章 総序(第一節)を見よう。

   生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁(いんねん)なり。

これは「正法眼蔵」の「諸悪莫作」にでてくる。その前後の現代語訳は次のようになる。

 三歳の子供は、仏法を口にする資格はないと思ったり、また、三歳の子供のいうことはわけもないと思うことは、至って愚かなことである。その理由は、生を明らかにし、死を明らかにすることが、仏道の一大因縁(もっとも大切なこと)だからである。玉樹康四郎「日本の名著7・道元」(中央公論社)p.173

 

[p.125]へ続く。

112

7。弘法大師空海へのアプローチ その7  空海と水銀 

 「今昔物語」第11巻第25話「弘法大師、始建高野山語」に、空海高野山へ入る時、2匹の犬を連れた狩の人に導かれ、「丹生ノ明神」に出会うという話がある。そしてこの犬飼が「高野ノ明神」であった。この話は丹生都比売神社と高野明神の由緒でもあるが、空海と土地所有者との関係をも示唆する。

 丹とは辰砂のことで加熱すれば水銀が得られる。そして丹生、あるいはそれから派生した地名は丹生族が採掘した古代の水銀産地であり、丹生族が祀った神が丹生都比売であるから、この説話は高野山開基に当たって丹生族の協力があったことがわかる。参考:松田壽男「丹生の研究」(早稲田大学出版会)、新日本古典文学大系「今昔物語三」(岩波書店)p.70

 

8。干拓について その2 [p.122-123]

 前回小学校の副読本を読んだので、今回は中学校の副読本を見てみよう。中島忠由先生が重井中学校で昭和25年に書かれた「義農五代の苦心 村上長右衛門傳」のp.4からp.7の抜粋である。

 

9。小学校史 その2   [p.124]

 明治5年の「学制」に始まった公教育としての小学校は、明治12年(1979)の「教育令」で見直されるので、この期間が「学制の時代」と呼ばれる。明治5年という国家としても模索の時代であったのだから、教育の場においてはそれ以上に、試行錯誤に満ちていた時代だと想像される。

 この間の重井のようすを見てみよう。

明治6年(1873)10月 善興寺内に振徳学舎を設置する。教師、沼田良蔵。大師堂に信誠舎を設置する。明治6年10月~明治10年2月の間使用された善興寺内の振徳学舎は教員室4坪、教室32坪、便所2坪。総計38坪。[p.124]

明治8年(1875)8月 振徳学舎を重井小学校と改称。就業年限4ヶ年程度。信誠舎を大師堂分教場と改称。細島に分教場設置。就業年限3ヶ年程度。 

明治10年(1877)2月  山の神に校舎を新築し5月に移る。教室34坪、土間5坪。大師堂分教場を廃す。

 

この間の関連法案の一部を記す。 

明治5年(1872)

学制(明治五年八月三日文部省布達第十三・十四号)

第二百十四号 今般文部省に於て学制を定め追々教則をも改正し布告に及ぶべきにつき自今(じこん・いまより)以後一般の人民華士族農工商及女子必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す。人の父兄たるもの宜しく此意を体認し其愛育の情を厚くし其子弟をして必ず学に従事せしめざるべからざるものなり。高上の学に至ては其の人の材能に任すといえども幼童の子弟は男女の別なく小学に従事せしめざる

125

ものは其父兄の越度たるべき事。右之通被 仰出候条地方官ニ於テ辺隅小民ニ至ル迄不洩様便宜解釈ヲ加へ精細申諭文部省規則ニ随ヒ学問普及致候様方法ヲ設可施行事 明治五年壬申七月 太政官

明治五年八月三日文部省布達第十三号別冊

第二十一章 小学校ハ教育ノ初級ニシテ人民一般必ス学ハスンハアルヘカラサルモノトス之ヲ区分スレハ左ノ数種ニ別ツヘシ然トモ均ク之ヲ小学ト称ス即チ尋常小学女児小学村落小学貧人小学小学私塾幼稚小学ナリ

第二十七章 尋常小学ヲ分テ上下ニ等トス此ニ等ハ男女共必ス卒業スヘキモノトス教則別冊アリ

下等小学教科

 一綴字読並盤上習字 二習子字形ヲ主トス 三単語読 四会話読 五読本解意 六修身解意 七書牘解意並盤上習字 八文法解意 九算術九々数位加減乗除但洋法ヲ用フ 十養生法講義 十一地学大意 十二理学大意 十三体術 十四唱歌当分之ヲ欠ク 

 上等小学ノ教科ハ下等小学教科ノ上ニ左ノ条件ヲ加フ

 一史学大意 二幾何学罫画大意 三博物学大意 四化学大意

 其他ノ形情ニ因テハ学科ヲ拡張スル為メ左ノ四科ヲ糾酌シテ教ルコトアルヘシ

 一外国語学ノ一二 二記簿法 三画学 四天球学

 下等小学ハ六歳ヨリ九歳マテ上等小学ハ十歳ヨリ十三歳マテニ卒業セシムルヲ法則トス但事情ニヨリ一概ニ行ハレサル時ハ斟酌スルモ妨ケナシトス

 小学教則概表(明治五年十一月十日文部省布達番外) [p.124]

第四十章 小学教員ハ男女ヲ論セス年齢二十歳以上ニシテ師範学校卒業免状或ハ中学免状ヲ得シモノニ非サレハ其任ニ当ルコトヲ許サス

以上三章ハ其目的ヲ示ス数年ノ後ヲ待テ之ヲ行フヘシ後章ハ現今ノ位ニ応シテ之ヲ許スモノトス

第四十六章 小学校教員ハ男女ノ差別ナシ其才ニヨリ之ヲ用フヘシ

明治6年(1873) 

小学教則改正(抄)(明治六年五月十九日文部省布達第七十六号)

小学教則 第一章 小学ヲ分テ上下二等トス下等ハ六歳ヨリ九歳ニ止リ上等ハ十歳ヨリ十三歳ニ終リ上下合セテ在学八年トス

明治8年(1875)

小学学齢ヲ定ムル事(明治八年一月文部省布達第一号)

小学学齢ノ儀自今満六年ヨリ満十四年マテト相定候条此旨布達候事

 

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◉本会資料の一部をブログ「いんのしまみち」で公開しています。

◉次回、12月20日(火)10:00~11:00、重井公民館。11:30、ローソン重井店駐車場集合。向島余崎城跡、高見山、除虫菊神社、小可島城跡、岩子島厳島神社等。(昼食持参)(申し込み不要。一方だけの参加も可能です。)

 

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尾道市因島 史跡散歩11〜15

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1〜5のリンクと関連写真 6〜10のリンクと関連写真 11〜15のリンクと関連写真 16〜20のリンクと関連写真

 

せとうちタイムズの連載「ふるさとの史跡をたずねて」web版へのリンクと関連写真などです。web版は紙版より少し遅れます。

11 馬の墓(因島田熊町中区) 2016.10.15.

12 岡野明神(因島田熊町中区) 2016.10.22.

13 藤原神社(因島田熊町中区) 2016.11.5.

14 妙泰夫人の墓(因島田熊町浄土寺) 2016.11.12.

15 耳明神社(因島土生町大山神社) 2016.11.19.  

 

11 馬の墓(因島田熊町中区) 2016.10.15.

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 12 岡野明神(因島田熊町中区) 2016.10.22.

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岡野明神藤原神社

 

 

13 藤原神社(因島田熊町中区) 2016.11.5.

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岡野明神藤原神社

 

 

14 妙泰夫人の墓(因島田熊町浄土寺) 2016.11.12.

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15 耳明神社(因島土生町大山神社) 2016.11.19.  

 

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1〜5のリンクと関連写真 6〜10のリンクと関連写真 11〜15のリンクと関連写真

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第6回 2016.10.18.(共催:因島白滝公園保勝会)

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第6回20161018

p.91-92] [p.109-110]  [p.93-98] [p.99-100] [p.101-103] [p.104-105] [p.106] [p.107] [p.108] 

第6回20161018

レジメ [p.91-92][p.109-110

1。白滝山の現状について              [p.91-92

2。白滝山について  その6           [p.93-98] [p.99-100

3。村上水軍について その6      [p.101-103

4。田熊村四国  住原俊治          [p.104-105

5。田熊史跡巡り                   [p.106]       

6。干拓について                             [p.107]   

7。道元禅師へのアプローチ その6  何事も修行         [p.109-110

8。弘法大師空海へのアプローチ その6 「請来目録」  [p.109-110

9。柏原学・柏原正兄弟                                                        [p.108

10。小学校史 その1                                                           [p.109-110

 11。トランペット鼓隊50周年記念誌制作委員会 柏原裕      [p.109-110

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壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録)

 

1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

10月4日の中国新聞「海賊の記憶①」で紹介された。また、10月2日午前、ちゅーピー子ども新聞の取材を受けた。表参道山門下石垣修復方法について、しまおこし課から諮問があったので区長会と連名で回答した。白滝山フォトコンテストのポスターと応募要項の配布を開始した。因島観光協会のホームページにも掲載。

 

2。白滝山について  その6 [p.93-100]

 今回は、柏原舒延著「霊峯白滝山の沿革」については、

(24)一観の功過自知録(続)    「反省ノ泉」昭和45年2月1日発行 第208号

(25)一観伝道物語         「反省ノ泉」昭和45年4月1日発行 第210号 

(26)一観伝道物語         「反省ノ泉」昭和45年5月1日発行 第211号 

(27)一観の功過自知録(ラジオで放送さる)        

                「反省ノ泉」昭和45年6月1日発行 第212号

(28)一観伝道物語         「反省ノ泉」昭和45年7月1日発行 第213号

(29)観音講再興の由来       「反省ノ泉」昭和45年8月1日発行 第214号

の6回分を読む。[p.93-98]

 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の重井村貳番組(一部)を見る。現在との関係は次のようになる。二番組:ロ区の山田・有浜班、ハ区、ニ区の須越・須越奥班。[p.99-100] 

 

3。村上水軍について その6  [p.101-103]

    因島村上氏の系譜のうち、田中稔因島史考」のp.116-118を掲載した。丸本家、長右衛門家など他書と異なるところもあるが、わかりやすいのでまずこれを紹介する。長右衛門については代数を加えた。

田島分家。一代吉豊は田島地頭職を宛行(あてが)われ子息四郎吉則を田島へ住ませた。四郎吉則が田島の町づくりをするが、後に能島村上氏に属する。

 

大浜分家。大浜幸崎城主村上吉房は四代吉直の弟である。 

百島分家。百島茶臼山城主村上義高は大浜幸崎城主吉房の嫡子である。

岩城分家。岩城八幡山城主村上敬吉は六代吉充の弟。

鞆分家。鞆古城山城主村上亮康は六代吉充の弟。

田熊分家。竹島城主村上四郎左衛門直吉は六代吉充の弟岩城八幡山城主敬吉の子である。

 

4。田熊村四国    住原俊治     [p.104-105]

91 

5。田熊史跡巡り      [p.106]

 天授3年(1377)霜月15日の釣島箱崎浦の戦いの跡は田熊にもあるので関連史跡を巡る。併せて周辺の史跡も探訪する。

菅原神社(天神山城跡) 延喜年間(901年ごろ)菅原道真太宰府に左遷された途中、立ち寄ったことを記念して建久年間(1190年ごろ)に天満宮を祀った。また応永30年(1423)に尾道吉和鳴滝山城を落城してきた宮地大炊助明光が住んだ。北と東に4カ所の廓があった。樹高20m、周囲約7m、樹齢900年余りの楠は市の天然記念物(昭和36年指定)である。

大田熊 六代吉充の弟岩城八幡山城主村上敬吉の子竹島城主四郎左衛門直吉が島前城を居城とした。直吉を祖とし、神官、庄屋などを勤めた。田熊小学校の前身である久敬舎が慶応元年に村上萬之介により大田熊に開設された。

田熊小学校跡 重井小学校とともに明治6年因島の最初の公立小学校として誕生した。また慶応元年以来の前史もある長い歴史を持つ尾道市立田熊小学校は平成27年3月に閉校して尾道市因島南小学校となった。

亀甲山八幡神社 村上直吉らが現在地に築造。因島南部で唯一の八幡神社であり、田熊、土生、三庄の総鎮守神「三荘八幡宮」として崇められた。文政年間に火災。安政5年(1858)再建。本殿は三間社流造、屋根中央に千鳥破風。母屋丸柱は六百年を越す檜材。平面・妻面には動植物の多様な彫刻が組み込まれている。江戸末期の成功な神社建築で因島を代表する建造物である。昨年大修理が行われた。拝殿は明治42年のものであり、元の拝殿は絵馬舎として右側に移された。天保6年、あるいは安政5年に御神体を移した仮殿の跡が神踞石である。右手の因島護国神社因島遺族会が昭和41年に建立した。樹高10m以上、樹齢800年以上と言われるヤマモモは市の天然記念物(昭和36年指定)である。

浄土寺 岡野氏の菩提寺であった「善福寺」を起源とする。天正5年(1577)に村上氏の菩提寺であった長源寺が消失したので、村上直吉が岡野氏とはかって大改修をして真言宗に改めた。寛永3年(1750)全焼。天保3年(1832)再建。直吉墓、大田熊家墓地、岡野氏先祖碑、妙泰夫人墓などを見る。

岡野明神・藤原神社 天授3年(1377)の釣り島箱崎浦の戦いで、中庄茶臼山城主大鳥義康の弟宗義などが戦死した地と伝えられる。田熊岡野氏の祖である岡野対馬藤原通宗は元の名は今岡対馬守通宗という河野氏の子孫である。通宗には、この時戦死したという説と160年後天文6年(1537)霜月15日に亡くなったという二つの説がある。なぜ岡野に変えたのか、なぜ藤原神社が隣にあるのか、という疑問とともに謎である。

馬の墓 釣島箱崎浦の戦いでこのあたりまで逃げてきて馬を乗り捨てたので、則末という地名になったという説がある。宝暦十四年の村立実録帖に出てくる小社馬神は藤原神社のこととされているが、馬の墓とか馬塚と呼ばれるものの可能性はないだろうか。

 

92

島四国60番横峰寺 本四国が石鎚山近くの高所にあり、それに倣ったものか、大山トンネル近くの高所にある。現在は少し低いところに新築移転された。

春日神社 樫平宇賀之神社のこと。田熊農業発祥の地と言われる。

道標「右土生三庄道 左西浦重井道」と書かれた道標。竜王山と山伏山の間の峠(今は横山隧道が通っている)を経て、西浦峠へ通じている。

金栗池 安政柑発祥の地碑 田熊は八朔だけでなく、安政柑も発祥の地である。

弁財天 宮島より勧請されたものという。現在の拝殿は平成13年新築されたもの。

 

6。干拓について  [p.107]

 小学校社会科副読本「わたしたちのまち 因島」1994年3月p.109-112を読む。4年生の重井の干拓についての話である。

 

7。道元禅師へのアプローチ その6  何事も修行

 道元禅師が宋に留学した時、港で上陸許可を待っていた頃、食事係の老僧が椎茸を買いに来た。食事係のことを典座(てんぞ)という。その老典座に道元が、そういう煩わしいことはやめて座禅でもしておいたほうが良いでしょうと言った。すると、老典座はあなたは修行とは何かわかっていないと、笑った。それで道元は修行とは何か悟ったいう。

 今でも永平寺では、座禅やお経を読むことだけが修行ではなく、掃除をしたり食事をしたりその準備をしたりすることまで、すべてが修行だという。仕事でも家庭でも細々とした、いわゆる雑用の多さは多くの人が日々経験している。雑用こそが本務であり生活そのものだと、この挿話は教える。 

 

8。弘法大師空海へのアプローチ その6 「請来目録」

 空海は20年の留学予定を2年で切り上げ大同元年(806年)10月、博多津に帰ってきた。そして10月22日付で朝廷に「請来目録」を提出した。最澄と違って2年で帰るというのは法律違反であったから、物質的な面だけでもこれだけの成果を上げたのだから・・・という自負に似た弁明の意味もあったと思う。また、3月に桓武天皇崩御し、平城天皇が即位していたのであるから、なおさら自己を売り込む必要があったにちがいない。空海の苦しい立場は大宰府観世音寺で入京の許しが降りるのを2年ほど待っていることからも伺える。

 

9。柏原学・柏原正兄弟   [p.108]

 京都でシンポ工業(株)(現・日本電産シンポ:資本金25億92百万円、売上高443億円、社員2410名)を作った柏原学・柏原正兄弟は重井町川口のトウスヤで生まれた。 日本電産シンポは、1952年4月に我が国初の「無段変速機」メーカーとして誕生した、「トラクション技術分野」が得意な会社です。 また、その無段変速機の技術を伝統産業に融合させ、世界で初めて陶芸用電動ろくろを開発し、現在の陶芸文化の発展に貢献をした会社でもあります。(同社のHPより)

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 柏原学氏が発明した「リングコーン無段変速機」は数々の発明賞に輝き、現在も製造販売されている。

 トウスヤとは唐臼(トウウス、カラウス)屋のことで、農業の傍ら、依頼に応じて唐臼を設置しに行くようなことをしていたのでついた屋号だと思われる。トウスヤは峰松神社参道の横にある。家の前には大浜往還(古道)が通っており、大浜から重井尋常小学校の高等科へ通った児童の通学路であったから、久保田権四郎氏のことも当然耳に入ったことであろう。また、道沿いに重井村四国77番道隆寺がある。なお、柏原学氏の名は、公民館中庭にある「重井教育整備事業に関する寄附者」の石碑に「一 金百万円也 宇治市 柏原学」と見える。

 資料は、1963年のシンポ工業(株)の会社案内「会社のあらまし」より抜粋。

 

10。小学校史 その1

 寺小屋や私塾によって行われていた庶民教育が明治維新後、公教育となり、やがて義務教育となる。

 明治の公教育の精神は明治元年3月14日の「五ヶ条の御誓文」に発し、制度としては明治5年8月3日太政官布告の「学事奨励に関する仰出書」、及び同日発布の文部省布達十三別冊「学制」による。なお、これはフランスの制度を規範としたものであった。

 広島県では、明治6年4月12日白浜権参事官通達で小学校設立願を提出させた。一六小区の因島では、「振徳舎」(重井村善興寺、教師沼田良蔵)と「研機舎」(後に「尚純舎」に変更)(田熊村浄土寺、教師村上万之助)の二か所が許可された。なお、田熊村では慶応元年に私塾の「久敬舎」が大田熊に開設されており、前身となった。

 以上が因島における公教育の始まりである。(参考:「因島市史」p.891)

 

11。トランペット鼓隊50周年記念誌制作委員会   事務局 柏原裕

 9月28日の準備委員会を経て、10月10日に第1回重井小学校トランペット鼓隊50周年記念誌制作委員会が開かれた。委員長:柏原幸子元重井小校長、副委員長:岡野良子元因北小校長、梶田勇司重井小教頭、柏原正和重井小PTA会長、顧問:深見直彦重井小校長。事務局 柏原裕(事務局長)、村上明嗣、上馬場伸子、柏原広雄、柏原林造 とし、年代別制作委員は順次追加することが決まった。写真、思い出、出演行事等の資料を収集し、年度内の発行を目指す。ご協力をお願いします。 

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会 

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第5回 2016.9.20.(共催:因島白滝公園保勝会)

 ふるさとの歴史を学ぶ会

第5回

p.71-72] [p.89-90] [p.72-78] [p.79-81] [p.82] [p.83] [p.84-85] [p.86-87] [p.88] 

 

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壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老にして学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録

 

 

 

 

1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

 6月の大雨で山門下の石垣が崩壊したため、一丁から表参道が通行止めとなっており、裏参道のみが通行可能である。 もともと裏参道は整備が十分になされていない上に急傾斜の所もあり、さらにこの度の大雨で表土が流れた所もあったので補修を必要とした。管理人、ヴォランティアの町民、区長会、保勝会などで応急的な補修を行っている。

 

2。白滝山について  その5 [p.73-81]

 今回は、柏原舒延著「霊峰白滝山の沿革」について、

(18)一観居士因縁記(天の巻)   「反省ノ泉」昭和44年8月1日発行 第202号(18)〜(23)

(19)一観居士因縁記解説      「反省ノ泉」昭和44年9月1日発行 第203号

(20)一観居士因縁記解説      「反省ノ泉」昭和44年10月1日発行 第204号

(21)一観居士因縁記解説      「反省ノ泉」昭和44年11月1日発行 第205号

(22)一観の功過自知録       「反省ノ泉」昭和44年12月1日発行 第206号 

(23)二二号迄のまとめ       「反省ノ泉」昭和45年1月1日発行 第207号 

の6回分を読む。[p.73-78]

 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の重井村壹番組(続き)、貳番組(一部)を見る。地区割の現在との関係は次のようになる。一番組:イ区、ロ区の丸山班。二番組:ロ区の山田・有浜班、ハ区、ニ区の須越・須越奥班。[p.79-81] 

[p.81]原本p.84の六部了心は大師堂にある六十六部廻国供養塔の願主である。廻国供養塔は因島に9基あり、重井には3基ある。その1つである。

 

3。村上水軍について その5  [p.82

    松浦儀作「因島村上と青影城址因島市青影観光会、昭和三十三年、p.26の「因島に残る村上氏」は、古いものなので現状とは合わなくなっている面もあると思われるが、参考までに載せた。また、因島村上氏についてもその後の研究で表記の異なるものがあるので注意が必要である。青影城は第一家老救井氏の居城と考えられている。大浜の村上丹後守吉房は四代吉直の弟である。補足すれば、中庄平木祖主殿は助道のこと。大田熊祖直吉は六代吉充の弟敬吉の子。 

 

4。中庄茶臼山城跡周辺史跡巡り      地図 住原俊治 作成 [p.83]

 天授3年(1377)霜月15日の釣島箱崎浦の戦いは島前城の今岡氏と中庄茶臼山城の大鳥氏が、村上師清と戦って負けた。茶臼山城の周辺の史跡を探訪する。

 

茶臼山城跡 石名松浦氏先祖碑、小林氏先祖碑

 茶臼山城は大鳥義直の居城で、城主は大鳥義康である。中世には城主は麓の館に住んだ。すなわち土居形式(砦を兼ねた住居)から砦が独立したものと考えてよいのだろう。義康の弟が宗義で、その夫人が妙泰夫人である。標高126mの頂上付近が本丸、現在の登り口の鉄塔のある辺りが二ノ丸、本丸方向へ行かず右手の一段下がったところを南東へ進むと三ノ丸。かつて三ノ丸への登り道があり、そこに茶臼神社と松浦氏先祖碑があったものと思われる。松浦氏先祖碑は現在地へ移された。大鳥氏の子孫が中庄松浦氏である。石名松浦氏と呼ばれ、後に分家して蒲田松浦氏と徳永松浦氏に分かれた。石名松浦氏の先祖碑は中須賀池の消防署西にある。蒲田松浦氏徳永松浦氏の先祖碑はそれぞれ荒神社の少し東、島四国21番大龍寺境内にあり、別個に先祖祭りが行われているとのことである。石名松浦氏先祖碑の隣に小林氏先祖碑がある。

徳居屋敷(田頭家住宅)

 茶臼山の東麓に江戸時代の武家屋敷の面影を留めていると言われる徳居屋敷がある。中庄田頭氏の祖である田頭氏が弓削から移って、この地を買ったとき、有名な家なので屋号として残すことにしたというエピソードが伝わっている。田頭氏の先祖は承元年間(1207頃)に弓削に来て多賀城を築いた宇多源次兵衞明利を祖とする。二代目で田頭と改正。三代から6代にわたって河野家に従った武門であったが、八代が慶長3年(1598)に没した後、九代が武家を廃しその子茂兵衞満辰が両親と共に中庄へ来た。(参考:「弓削町誌」p.119) 

菅原神社 祭神:菅原神。貞亨2年(1685)に柏原吉助元祖権右ヱ門と田頭幸吉中祖茂平が太宰府より勧請。

不二庵(権現不動堂) 徳屋田頭家が創建。

●権現下池 広さ793㎡、満水時水深5.4m。

隠島神社、権現廃寺

 因島に関する記録で文献上最も古いのは、「三代実録」の元慶2年戊戌(878)12月の条の15日にある「○十五日丙子、授備後國無位隠嶋神従五位下

(十五日丙子、備後の國無位隠嶋神に従五位下を授く)」佐伯有義編、「六国史. 巻10 (三代実録巻下)」、朝日新聞社昭和16年、p.156の記述である。隠嶋が因島のことであるとすれば、であるが。「隠嶋神」と伝える神社が、多数ある。この隠島神社、重井大疫神社(祇園さん)、大浜齋島神社、外浦住吉神社などである。

中古社殿大破ニオヨビ后マタ大雨ニ社地を損ジ大鳥居石燈手洗鉢流沙ニ埋リ民力ニ不堪欠シテ遂ニソノ敗スルニ及ンデ該地モ民友ニ属ス然レド祭神ハソノ地ニ小社ヲ再建シ其ママ鎮座アリ元禄年間ニ大雨アリテ社地谷筋ニ押流シソノ際大鳥居笠石並ニ高サ四尺余広サ弐間ノ大石先洗鉢アラワル御調郡庶務役小林又兵衞正完ノ指揮ニ拠入所致シ埋隠シ畑地ニ修繕ス其ノ土地現今村上仏次郎所有ニシテ字権現二千八百九十番地ナリ其手洗鉢ニ隠島宮トアリシ旨土人古老ノ口碑ニ存ス」(森本八郎「中庄村史」p.49)     [p.89]へ続く。

 またここは、権現廃寺跡である。

現在その一角に隠島神社の小祠が建っており当時の神宮寺と思われる。第二次世界大戦の中頃、農耕中に瓦、土器、古銭など出土したが散逸し、現在瓦数点を残すのみである。これらは平安時代後期のものと結論づけられ市の重要文化財に指定されている。降って、平成三年八月再確認のため、試し掘を実施したところ、巾五十センチ、長さ五メートルの基壇の一部を発見し、また、瓦、土器などの破片七十点余りが出土し、寺跡があったことを裏付けることが出来た。田中稔因島史考」p.103 

赤雲神社 祭神:須佐之男神。明暦元年(1655)1月27日夜、権防山に赤雲の中に光が出たので、所有者の松浦(藤原)義光が翌日その近くの松の古木に注連縄を引き社殿を創設した。6月28日義光が出雲須佐之男神社より勧請。

 

5。中庄の「村四国八十八か所」   住原俊治     [p.84-85]

 

6。道元禅師へのアプローチ その5「正法眼蔵」〈即心是仏〉より

「即心是仏とは、発心・修行・菩提・涅槃の諸仏なり。」「いはゆる諸仏とは、釈迦牟尼仏なり。釈迦牟尼仏これ即心是仏なり。過去・現在・未来の諸仏、ともにほとけとなるときは、かならず釈迦牟尼仏となるなり。これ即心是仏なり。」

〈即心是仏〉(岩波文庫正法眼蔵(一)」p.148)

四国遍路が発心の道場、・・修行・菩提・涅槃の道場と四つの道に分かれている。菩提薩埵の略が菩薩で悟りを求める人という意味である。

 

7。弘法大師空海へのアプローチ その5 「三教指帰」について 

 弘法大師空海が若い頃書いた「三教指帰」(さんごうしいき)はその序文に「阿波の国の大滝岳によじのぼり、土佐の国の室戸崎で一心不乱に修行した」(p.255)ことが書かれてあり、有名であるが、儒教道教、仏教の比較論をしたものである。結論は「かの周公・孔子儒教老子荘子道教などは、なんと一面的で浅薄であることか」(p.291)と登場人物に言わせ、「出家することこそ最上の道」(p.292)としている。引用は中央公論社「日本名著3最澄空海」の福永光司口語訳による。

 

8。柏原米太郎氏 [p.86-87]

 柏原米太郎氏は重井では「台湾米」と呼ばれた台湾の実業家で、須越と上坂の間にある荒神社に柏原神社を建て、「柏原土廟記」を出版した。柏原米太郎氏に関する資料を集めてみた。

 柏原充正、「重井の電話史談」、昭和58年、p.92

   橋本白水「台湾統治と其功労者」南国出版協会(台北)、昭和5年、p.130

 田丸實太郎、「因島案内」、因島案内社、大正八年、p.73

 また、台湾の公文書の記録として以下のものがあった。

臺灣總督府及所屬官署職員錄》274

柏原米太郎 本籍:廣島 昭和三年 臺北州基隆市協議會員 市協議會員

基隆港移出米取扱ニ就テ 1927/ 柏原米太郎著 国立台湾大学蔵書目録

 

臺灣總督府專賣局檔案(大正十一年會計永久保存第九冊)

米酒一斗甕運送契約(新竹分工場、埔里工場、恆春工場、宜蘭工場、花蓮港工場、旗山工場、臺東工場) 柏原米太郎 

 

臺灣總督府府報資料

木杯及褒狀下賜(大阪商船株式會社基隆支店等捐獻金錢或物品或土地,故賜給木杯或褒狀)大正2年06月07日(19130607)

合資會社商船荷捌組基隆支店 、 小川直馬 、 柏原米太郎 、 田中庄吉 、 高田庄次郎 

 

木杯及褒狀下賜(大正6年6月23日木杯及褒狀頒賜名單,共193名)大正6年06月24日(19170624)基隆輕鐵株式會社 、 柏原米太郎 、 小松利三郎 

 

木杯及褒狀下賜又ハ贈與(內藤久寬等人捐獻罹災救恤金,故賜給木杯或褒狀)大正2年05月09日(19130509)柏原米太郎

 

臺灣總督府

柏原米太郎船舶國籍證書書換交付ノ件(基隆廳)1908-01-01(明治41年)

1907-1920 年各廳幼稚園入園資格及經費來源概況表  單位:日圓 

基隆幼稚園  3 歲到上小 學之前 設立者負擔。不足時由小松任三郎、小松利三郎、柏原米太郎、水野新十郎等人負擔。

 なお、吉田寅太郎著「續財界人の橫顏」經濟春秋社(臺北市)1933の頁241-244に「ヘョで鳴した、柏原米太郎君」というのがあるが未見。

9。重井小学校鼓笛隊の創設について  柏原 裕  [p.88]

 

 

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尾道市因島 史跡散歩6〜10

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1〜5のリンクと関連写真 6〜10のリンクと関連写真 11〜15のリンクと関連写真 16〜20のリンクと関連写真

 

せとうちタイムズの連載「ふるさとの史跡をたずねて」web版へのリンクと関連写真などです。web版は紙版より少し遅れます。

6 妙泰神社(因島土生町明体) 2016.9.10.

7 三庄の妙泰神社(因島三庄町三区) 2016.9.17.

8 青影落葉の神(因島土生町郷区) 2016.9.24.

9 三子松(因島土生町三子松) 2016.10.1.

 10 狸藪(因島三庄町一区) 2016.10.8.

 

 妙泰神社(因島土生町明体) |2016.9.10.0845.boo.jp

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因島南中学校の交差点で田熊側へ登る。ここの交差点から三庄側の次の交差点までの間が坂道になっていて昔の海と陸の境目だったことが伺われる。すなわち、このあたりまでが海だったと思えばよい。「土生小学校閉校記念誌」のp.37にこの頃の地図がある。 

 リンク

妙泰神社 字別略図

 

7 三庄の妙泰神社 (因島三庄町三区)2016.9.17.

 

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リンク

三庄町・妙泰神社  金刀比羅宮分祀

 

8 青影落葉の神(因島土生町郷区)2016.9.24. 

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名前がいいですね。「青影落葉の神」と聞いただけで、これはぜひ書いておこうと思いました。確かなことはわからないことだらけですが。今岡通任は戦記の著作もある教養人ですし、それに青影山の田熊側に住んでいたということですから、この人の墓を、敗軍の大将ですから、人目をはばかって呼ぶには、いかにもふさわしい。

でも、通任は因島で死んだのだろうか。

おそらく、字(あざ)は広畑でしょうが、確証が得られなかったので郷としておきました。

中郷医院のあったところですと書けば、あああそこかと思い出す人もいるかと思います。

リンク

青影落葉乃神

 

 

9 三子松(因島土生町三子松) 2016.10.1.

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「みこまつ」と読みます。

ここには、史跡らしきものはありません。あるいは、私が知らないだけかも知れません。巨大水槽がもう樹木に埋もれてしまったように、この丘もやがて山林に戻るのかもしれません。

リンク

三子松

 

 10 狸藪(因島三庄町一区) 2016.10.8.

 

 

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1〜5のリンクと関連写真 6〜10のリンクと関連写真 11〜15のリンクと関連写真

尾道市 因島白滝山 石仏の名前

白滝山リンク集 石仏の名前


悟りを開いて真理に達した者
 
 

菩薩 
 悟りを求めて修行する人。人々とともに歩むというのが庶民信仰。
 観音菩薩(母性的)➡️弥勒菩薩(未来救済)、普賢菩薩(女人成仏)➡️文殊菩薩(知恵)➡️地蔵菩薩(道端で子供救済、庶民の身近)➡️六地蔵   勢至菩薩➡️ 阿弥陀三尊像3体(観音菩薩像
 
観音菩薩(観自在菩薩)➡️阿弥陀三尊像3体(観音菩薩像
 33変化。・・・33観音。
 西国33では
  千手観音 15、十一面観音 7、聖観音 4、如意輪観音馬頭観音 1、准胝観音 1、不空羂索観音
 
観音経:法華経「観世音菩薩普門品第二十五」
 世尊妙相具 我今重問彼 仏子何因縁 名為観世音
 
羅漢 阿羅漢 
 尊敬や布施を受けるに値するもの。修行者の到達しうる最高位。
16羅漢 ➡️十六羅漢
  長くこの世に生きて人々を仏の教えで救済する役割を持った16人の羅漢。名前がある。
  仏滅後8000年ナンディミトラ阿羅漢が説いた。
  名前が付いている。
五百羅漢
 
仏陀に付き添った500人の弟子。仏滅後仏典編纂にあつまった500人の弟子。
 
 
 名前が付いている。
 1。舎利弗(シャリホツ) 舎利子とも。
 2。摩訶目犍連(マカモッケンレン) 目連とも。餓鬼道に落ちた母を救うために行った供養が施餓鬼で、盂蘭盆会の起源。