夕凪亭別館

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因島中庄町 松浦家家譜

茶臼神社 21番大龍寺(釜田松浦家先祖碑

松浦家家譜

 

(諸本からの抜粋、未校正)(別人の経歴が混在しているのでは? あるいは年代が間違っているのか?)

 

陣貝(石名)松浦家

初代

 城戸(きど)太郎兵衛尉  従五位下 藤原盛義

 建武元年(1334年)5月1日没。  天真院寶山義永大居士。


 元弘三年(1333年)5月、 土佐国但馬守の侍従藤原忠義の家臣であった盛義は、 
忠義に従って尾道浄土寺へ赴き、さらに浄土寺の領地になった 因島へ渡った。 
盛義は、忠義の下で伊予近海において戦い、 その功績により、 従五位下に叙せられた。

 

2代

 城戸賜大鳥二郎兵衛尉 藤原光景 。
 文和3年(1354年)3月2日没。瑞龍院徳岩永澤大居士。

 

3代

 大鳥式部民之尉 権大学  修理権太夫 藤原盛長 。
 文和2年(1353年)十一月十六日没。 長生院大真義孝大居士。

 

4代
 大鳥豊後守修理大夫 藤原光貞 。画所預職。従四位下

 

5代?

 大鳥伊予守   従五位 藤原義直 茶臼山城主 

 永亨6年(1434年)8月1日没。 藤原院臼山自然大居士 。

 一説に西浦松屋過去帳には「永亨六甲寅年八月朔日 小田薬師に葬る云々」(西浦松屋過去帳

6代

 大鳥左京尉 藤原直盛

 文明元年(1469年)9月30日没。瑞仙院南山徳崇居士。

 

7代

 大鳥勝祐尉義康 藤原義康 (茶臼山城主 大鳥義康 )

 明応九年(1500年)6月9日没 。文照院本光善性居士。別人か?

 釣島箱崎浦の戦いに敗れる。茶臼山城落城。

 茶臼山城主 大鳥義康の弟大鳥宗義の妻 妙泰夫人土生越えで敗死。妙泰神社。

 妙泰夫人の墓(供養塔)は田熊浄土寺。鐘楼の近く。廻国供養塔、つんぐり地蔵などの近く。元禄9年  妙泰菩提也  三月二日。

 大鳥九郎左衛門宗義は田熊の龍ガ迫で敗死。

 義康の二男盛久と女児一人が土生の三子松で敗死。

 今岡通任の墓:郷、広畑、通称楠木。「青影落葉神」。

 3男 大鳥佐武郎 藤原盛久 

  田熊金山の海浜で敗死。

8代

 大鳥太郎兵衛尉 藤原康盛 大鳥康盛 

 亨禄元年(1528年)3月14日没。 寿光院清山浄機居士。

 

9代

 大鳥右衛門祐 藤原光康 

 永禄九年(1566年)12月10日没。光厳院徹性日通居士。 
  父は、松浦氏、忠頼。 
  母は、5代、大鳥伊予守藤原義直の曽孫娘。 
  光康は7代目大鳥勝祐藤原義康の嗣子となる。

 

10代 松浦太郎左衛門尉 盛光

  天正19年(1591年)5月23日没。自得院天髄道仙居士。

  松浦と名乗ってからの一代目 
  陣貝(石名)松浦家より、徳永松浦家、釜田松浦家が分家。

  長男、松浦盛光(陣貝)、 次男、松浦藤二郎(徳永)、 三男、松浦平之進(釜田)ということになる。

 

11代

  松浦民部少輔 藤原盛義 

      慶長19年(1614年)3月12日没。天祐院功山道忠居士。
 永禄年間(1,558年ー1569年)に茶臼山北部山林を東氏正時に譲った。 
 茶臼山の東、南、西の三方の耕地及び 山林はそのまま所有した。 

12代

 松浦治良兵衛尉 藤原直義 
    寛政十八年(1641年)7月7日没 。鶴松院智嶽安徳居士。

13代

 松浦治良太夫 義光 

 寛文8年(1,668年)5月27日没。 松寿院太窓芳林居士。
 元和3年(1617年)庄屋。 
 寛永2年(1625年)8月1日茶臼山城跡に社殿 再建。

 寛永3年(1626年)因島が9ヶ村に分割された。 松浦義光は、庄屋を辞退し、帰農。この頃、義光、郷内の小林又左衛門、 大上十良太夫、長福寺(因島中庄)を 建立。

 明暦元年(1655年)権防山に社殿を建立し、同年6月28日 出雲国須佐之男神社から、須佐之男命の御分霊を迎え、これを 祭神として勧請して、「赤雲神社」と名ずけた。「陣具の荒神さん」。

 

 松浦三郎兵衛 盛敏 
  十二代直義の子。十三代義光の弟 
  正保元年(1644年)藩主浅野候の命により、 御調郡の郡務を勤め、御調郡徳永村(現在の御調郡御調町河内地区大字徳永) へ移る。「清十良の祖」といわれている。

 松浦伝左衛門 盛質 
  十二代直義の子。十三代義光の弟。 
  承応2年(1653年)耕地及び山林若干町歩を譲り受けて、 「梶畑」へ分家。「伝三郎の祖」といわれている。

 

14代

 松浦治右衛門 光照 

 松浦興市兵衛 貞光 (西浦松屋の元祖)

 延宝3年(1,675年)12月19日没。 本雪了源禅定門 。
 13代義光の二男。14代光照の弟。 
    慶長年間(1,596-1,614年)頃に、耕地、宅地及び 山林を数十有町歩譲り受けて、 茶臼山の麓「陣具」へ分家した。 貞光は、興市兵衛貞運に後を譲って相続させ、 次郎左衛門貞嗣と長兵衛をそれぞれ分家させた。 

15代

 松浦治兵衛 義照 
 元禄16年(1703年)6月9日没。 光厳良圓居士。

 14代光照の長男 
 嗣子に恵まれなかったので、分家光平の元祖、 徳左衛門義則の二男、想右衛門忠敬を嗣子(養子)として、 忠敬に後を継がせた。 また、義照は、村上則敬の子(先代光照の孫、当代義照の妹の子) 吉良兵衛と宮地七左衛門の子の二人を 養子として、それぞれ分家させた。 

 松浦徳左衛門 義則  「光平松浦」の祖。
 14代光照の二男。15代義照の弟。 
    寛文年間(1,661年―1672年)頃、耕地十有余町歩、 山林数ヶ所を譲り受けて、「光平」へ分家した。 義則の 長男長左衛門が2代目を継いだが、嗣子が なかったので、弟(義則の4男)角十郎が、 その後を譲り受け、三代目を相続した。

   光平松浦の元祖から5代目の萬四郎甚松の世代に、 甚松の二男甚九郎が

  「室屋」へ分家し、「森屋松浦」の元祖となる。

   義則の二男想右衛門忠敬は、本家石名の 16代を継ぎ、三男金右衛門が分家して、 
「金石松浦」の祖となる。 

 

16代  

 想右衛門 忠敬 

 

17代

 

 

 

徳永松浦家

初代

  松浦藤二郎 光敬  

  文禄4年(1,595年)4月5日。松翠院盛敬自○居士。
  亨禄年間(1,528年ー1531年) 分家し、住居を日和谷(徳永)へ移す。 
  盛義?(盛光?)の二男盛久を嗣子とする

2代

  正九郎 盛久  山守治部正九郎尉

  寛永9年(1633年)8月2日没。徳寿院日和自照居士。

  石名松浦十一代民部少輔 盛義の二男 
  松浦藤二郎光敬の嗣子となり、亨禄年間(1,528-1531年)頃に 、養父光敬と共に、住居を日和谷(徳永)へ移す。 
  浅野藩の山守役を勤める。 
  日和谷に耕地及び山林三十有余町歩を所有する。

 

以下の代数は1つ間違っている。3代とすべきだろう。
2代平四郎 盛兼 
3代清兵衛門 盛道 
4代善十郎 興道 
5代徳八郎 時道 
6代清吉郎 吉時 
7代徳八 吉輝 
8代清吉 正直 

 

 鶴本屋(たるまん)弥八

釜田松浦家

初代

 松浦平之進 盛行  弥三兵衛 
 天文年間(1,532年ー1554年) 分家し、住所を宮脇(釜田)に移す。

 
2代弥三兵衛(市三郎) 
3代弥三兵衛(善造)

 (徳永丸三家初代)釜田善兵衛 
 (山口勝一家初代)釜田甚六 
 (陣貝ソーメン屋家初代)天神源七 
4代甚七 
5代弥平 
6代甚七 
7代保平 

8代佐平 

9代要次郎 
10代要次郎(富三郎) 
11代源松 
12代要次郎(惣次郎) 
13代査炳 
14代繁夫 
15代基之(神奈川県在住)

 

 

 田中屋(万田醗酵)

田中屋初代  清助 
田中屋2代 清助 
田中屋3代 藤十郎 
田中屋4代 新五郎 
田中屋5代 林五郎 
田中屋6代 岩右衛門 
田中屋7代 友之助 
田中屋8代 林五郎 
田中屋9代 龍太郎 
田中屋10代 繁治 
田中屋11代 新吾郎 
田中屋12代 良紀(よしのり)

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料  第3回 2016.7.19. (共催:因島白滝公園保勝会)

第3回20160719

レジメ p.27-28p.48-50

    レジメの部分は以下の各ページの冒頭に再録しております。

1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄p.27-28 

2。白滝山について  その3 [p.29-36

 柏原舒延著「霊峰白滝山の沿革」p.29-32

 宇根家文書「五百大羅漢寄進」 p.33-36

3。柏原伝六と一観教    今井 豊      p.37-40

4。村上水軍について その3 「予陽盛衰記」から p.41-42 

5。細島 p.43-45

6。道元禅師へのアプローチ その3正法眼蔵」〈現成公案〉より p.48-50

7。弘法大師空海へのアプローチ その3 入唐のこと p.46 

8。重井村四国八十八か所札所について  その2 p.48-50

9。因島と周辺の霊場   住原俊治   p.47 

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いんのしまみち しげいみち おおはまみち なかのしょうみち とのうらみち かがみうらみち むくのうらみち みつのしょうみち はぶみち たくまみち 日本のみち

ふるさとの歴史を学ぶ会 

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 [p.27-28][p.48-50][p.29-32][p.33-36][p.37-40][p.41-42]p.43-45][p.46][p.47

 

 

 

 

 

少にして学べば、則ち壮にして為すこと有り。壮にして学べば、 則ち老いて衰えず。老いて学べば、則ち死して朽ちず。(言志四録)

 

1。白滝山の現状について 因島白滝公園保勝会 会長 柏原広雄

6月20日の豪雨により頂上山門下の石垣が大きく崩落した。山門への表参道は通行止めとし、一丁からの裏参道だけしか通れない状況である。また、6月29日の豪雨で釈迦三尊像の西側にある十大弟子5体のうち西側の3体が後ろ側へ転落した。

[付記]6月21日(第2回)の共催者挨拶の主旨:因島白滝公園保勝会は昔から白滝山の環境保全、遺産の継承を目的に活動してきた。歴史を学ぶ会の活動は、保勝会の趣旨と合致するところがあり、協力し一緒に学習していくために共催することにした。皆様のご協力をお願いしたい。

 

2。白滝山について  その3 [p.29-36]

 今回は、柏原舒延著「霊峰白滝山の沿革」については、

(8)石佛建立の信願       「反省ノ泉」昭和43年10月1日発行 第192号 

(9) 伝六の年譜        「反省ノ泉」昭和43年11月1日発行 第193号

(10)一観秘書峰松初五郎    「反省ノ泉」昭和43年12月1日発行 第194号

(11)白滝賛歌         「反省ノ泉」昭和44年1月1日発行 第195号

の4回分を読む。[p.29-32]

 また併せて、宇根家文書「五百大羅漢寄進」(文政十年 亥正月吉日 重井村 観音山」(1827年)のうち、五百大羅漢佛の外之浦、鏡、椋之浦、三ツ之庄村、土生村、尾道町、吉和村、三原、和田、細嶋、本鷺、須之江、向田浦村、高根嶋を見る。 原本にはページ数はないが、順次打っておく。

 寄進額は銀である。目は文目の略で匁のこと。磯田道史武士の家計簿」(新潮新書)、2003、p.55の「表2 江戸時代の貨幣と価値」によると、銀1匁(もんめ)は現代感覚4000円、米価から換算した現在価値は666円である。[p.33-36]

 

3。柏原伝六と一観教    今井 豊      [p.37-40]

 2016年度芸備地方史研究会大会(2016年7月3日、広島大学)において、今井豊氏が「柏原伝六と一観教」と題して研究発表を行った。伝六さんが歴史の学会で取り扱われたのはおそらく初めてである。その要旨を載せる。

 

4。村上水軍について その3 「予陽盛衰記」から [p.41-42]

「予陽盛衰記」は「予陽河野盛衰記(河野軍記)」と呼ばれる、河野氏の盛衰を描いた16巻の軍記物語の流布本の一書である。村上和馬氏が元文5年京都書房版を訓読したものである。その第十二巻、第二章に因島村上氏のことが出てくる。北畠山城守師清(もろきよ)が信濃国から紀州雑賀(ざいが)、讃州塩飽、備中神島(こうのしま)を経て大島へ来て、河野通治へ礼を尽くしてから村上義弘の後を相続することが認められることが書いてある。また今岡左衛門尉通任が村上義弘の姉婿であること、南彦四郎通泰が河野通継の三男であることなどが記されている。北畠師清は村上義弘を継いで村上師清と改め、今岡通任と争ったのが、釣島箱崎浦の戦いである。勝った師清が子息3人をそれぞれ能島、来島、因島に配したというのが三島村上水軍の起源伝説であるが、本書ではその間に1代入る。なお、釣島箱崎浦の戦いが、村上義弘の跡目争いによるものの他、南北朝の戦いの局地戦であるとする説もある。因島村上氏の第一家老救井氏が新田義貞の子孫、第二家老稲井氏が新田義貞の弟、脇屋義助の子孫であることから、後者の可能性は高い。あるいは単なる因島の領有権争いだったのかも知れない。また、師清の子息3人を三島村上氏の起源とする話が史実でないとする見方もある。

 

5。細島 [p.43-45]

 因島重井町文化財協会によって平成28年1月31日に発行された「重井昔話し」から2話を選んだ。本書には17話が紹介されている。幾つかのソースを辿れば、重井学校文化部編「伝説の郷土」(藤井藤萬蔵)というのがあって、因島高校郷土史研究部、そして因島ジャーナル社によって再録刊行されてきた。因島高校郷土史研究部「因島の民話」のあとがきから想像するに、重井学校文化部編「伝説の郷土」というのは、戦前の重井小学校の子供たちによって集めれられたものではないかと思われる。だから、今回の「重井昔話し」の刊行は、まさに重井の昔話の里帰りであって、まことに慶賀すべきことであるので、まずそのことを記しておく。

 細島ハウスの東の松の木の下が「細観音」のタヌキの埋められたところである。観音さまは出てこないが、細島には西国三十三観音があり、穏やかな自然とよく調和している。

「弓瀬曽十郎」は細島茶臼山城主が弓瀬氏であることから、その由来を考えるために掲載した。足利尊氏が三原沖を通過するのは1336年のことであるから、村上吉充が青木築城する1569年まで約230年ある。また、弓瀬家の「元祖弓瀬宗三郎」と書かれた墓には、「道西禅定門」、「士 慶安元子六月十二日」とある。慶安元年は1648年であるから、この人が細島茶臼山城主であることは考えられない。その先祖を考えなくてはならない。箱式石棺(細1号)は昭和36年7月6日指定の因島市(現在尾道市)史跡である。粗製箱式石棺で古墳時代のものと推定されている。内径は高さ30cm、長さ、1.75m、幅、28cm、22cmである。(「因島市文化財」による。)荒神社は重井四廃寺の1つ長福寺の跡である。細島茶臼山城跡。標高43.5mで細島ではあまり高くない山である。浜田神社あるところが海だったとすると三方を海に囲まれ、西側に小島を擁しており、立地的には恵まれている。共同墓地から北に登る登山道があるが、今回は勾配の小さい東側の竹やぶから登る。山頂には灯籠と小祠があり、周辺に三十三観音がある。共同墓地。菅菊太郎「愛媛県農業史」(中巻)、愛媛県農会、昭和18年、p.96に大三島の人、下見(アサミ)吉十郎と甘藷の播布についての記述中、甘藷地蔵尊として崇め、祀られるものとして、地元の光雲寺境内のものなど愛媛県内の他、広島県内では生口の生善寺(洲之江)と重井村では「善孝(興?)寺境内」と「部落内」の二カ所が記されている。後者が細島共同墓地内のものではないかと思われる。浜田神社。桟橋からまっすぐ北側に向かうとすぐにある。浜本屋という家の先祖は島根県の浜田から来たという言い伝えがある。浜本屋が埋め立てた一帯が字・浜田である。浜田にあるので浜田神社である。[付記]重井西港から船が出ると馬神から離れた沖合を干満とは関係なく進む。近寄りすぎると危険であり、2つの浮き灯台「うしくそ」と「中もす」の間を通る。その奇妙な名前に多くの人は首をかしげる。前者は先の尖った岩礁の名前だということである。重井流に言うなら「うしぐそ」と濁らなければならないが・・。「踏むな!」という意味が込められているのかもしれない。その岩礁は大潮の干潮時に見える。二年連続でテレビドラマのロケ地にもなった名勝、新波止(しんばと)の北側である。ぜひ自分の目で確認してもらいたい。(この項、住原俊治氏の示唆による。)

 

6。道元禅師へのアプローチ その3「正法眼蔵」〈現成公案〉より

仏道をならふというふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるゝなり。自己をわするゝといふは、万法に証せらるゝなり。万法に証せらるゝといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。〈現成公案〉(岩波文庫正法眼蔵(一)」p.54) 

 道元禅師の主著「正法眼蔵」の第一現成公案の有名な言葉である。修が修行で、証が悟りであった。そしてここでは、悟りとして心身脱落というのである。具体的には自分を忘れる、すなわち自分を捨て去るということである。そういうことは世の中の自然の法則で実証されているというのである。「証せらる」というのには実証されるという意味であろうが、「悟り」でもある。身と心を捨てるといっても肉体は捨てることはできない。心、すなわち精神を捨てることになる。それは般若心経の「色即空 空即色」と通じるものがある。また、心と身が離れるということ、すなわち精神と肉体とが離れると解釈したらどうであろうか。本来、我々の存在は精神あっての肉体、肉体あっての精神であるであるが、それが離れるとはどういうことか。これは、それぞれが相手に影響されない本来の精神、本来の肉体へ戻るということである。

 

7。弘法大師空海へのアプローチ その3 入唐のこと [p.46]

渡辺照宏宮坂宥勝「沙門空海」(ちくま学芸文庫)、のp.79は空海の入唐時のことを記す。延暦23年(804)、第16次遣唐使として空海らの乗った第一船は目的地から大きく外れ福州に漂着した。そのため入唐が許されなかった。嘆願書を空海が代筆し、解決されたという有名な逸話を入唐早々に残すことになった。語学の天才ぶりを示すものとして有名な話である。その文章は引用しなかったが、他に「三教指帰 性霊集」(岩波書店日本古典文学大系71)p.266に漢文、訓読文ともに記載されている。

 

8。重井村四国八十八か所札所について  その2

 

 第2回[p.26]からの続き。

24番 室戸山明星院 最御崎寺。「二十四ばん 東寺 二十三人組」。伊手樋。23番の少し西。

25番 宝珠山 津照寺。「五 津」。八大さん庭右奥。

26番 竜頭山 金剛頂寺。「ばん 西寺」。厳島神社東。八大さん庭。

   ご詠歌に「月の傾く西寺の空」。22番の右。

27番 竹林山 神峯寺。「廿七ばん」。明神。米十屋。

28番 法界山 大日寺。「廿八ばん 大日寺 八人組」。島四国86番志度寺内。

 29番 摩尼山 国分寺。「○十九番 国分寺 十九人組」。明神。厳島神社の南。 隣が30番。

30番 百々山 善楽寺。「三十ばん 一○宮」。明神。厳島神社の南。(29、30合祀)。

   ご詠歌に「人多く立ち集まれたる一の宮」。

32番 八葉山 禅師峰寺。「禅師峰寺 弥七」。長崎。島四国72番曼茶羅寺前。

35番 医王山 清滝寺。「清滝寺 願主源七」。明神井戸。南側、右の奥。

36番 独鈷山 青龍寺。「青竜寺 十一人組」。大出材木南東。

39番 赤亀山 延光寺。「九番  延」。島四国84番屋島寺川口大師堂)内。

41番 稲荷山 龍光寺。「四十一番 龍光寺」。久保。角恵屋。

42番 一棵山 仏木寺。「四十二番」。久保。島四国76番金倉寺前。

44番 菅生山 大宝寺。「四十四ばん 大宝寺 四人組」。久保。旧廣島屋。

  旧田中医院。右側(外)。

46番 医王山 浄瑠璃寺。「四十六番 浄瑠璃寺 願主 今先わ」。藤井医院西。

47番 熊野山 八坂寺。「四十七番 八坂寺」。小林。島四国79番高照院横。

48番 清竜山 西林寺。「○○八番 西林○」。善興寺無縁墓地(東)。

50番 東山 繁多寺。 「五十ばん 繁多寺 七人」。砂原。島四国78番郷照寺内。

51番 熊野山 石手寺。「石手寺 九人組」。砂原。カジヤ奥。一本松。

52番 龍雲山 太山寺。「五十二番 太山寺 十三人組」。小林。トラヤ。

53番 須賀山 円明寺。「五十三ばん 円明寺 九人組」。小林。島四国79番高照院内、左。

54番 近見山 延命寺。「 十四番 延命寺 十人組」。小林。島四国79番高照院内、右。

49

55番 別宮山 南光坊。「第五拾五番 嘉永三庚庚六月吉日」。青木。昭和橋東。

56番 金輪山 泰山寺。「ばん  山寺」。青木金毘羅神社玉垣の上)。

58番 作礼山 仙遊寺。「五十八ばん 千光院 願主 万」。青木。青木道路改修碑横。

59番 金光山 国分寺。「国分寺」。東浜。島四国86番志度寺内。

60番 石鉄山 横峰寺。「六十 横」。伊浜。玉屋前(道路を隔てた石垣の中)。

61番 栴檀香園寺。「六十一番 村上六三郎 柏原金四郎」。右「六十一番 香光寺 中個  中」。東浜。島四国87番長尾寺内。

62番 天養山 宝寿寺。「六十二番 一宮寺」。細口。平和堂駐車場。

   ご詠歌に「さみだてのあとに出でたる玉の井は 白坪なるや一の宮かは」

64番 石鉄山 前神寺。「六十四ばん 前神寺」。宮ノ上。島四国88番大窪寺北。

65番 由霊山 三角寺。「六十五番 三角寺」。白滝山。観音堂前。

66番 巨鼈山 雲辺寺。「六十六番 ○辺○」。白滝山山頂。鐘楼前、大師立像周辺。

67番 小松尾山 大興寺。「六十七番 小松尾寺」。伝六さん(墓所)の仁王門より。

68番 七宝山 神恵院。「六十八番 九人組」。西洋館下。69番 七宝山 観音寺。

70番 七宝山 本山寺。「七十番 本山寺 十三人組」。島四国78番郷照寺横。

72番 我拝師山 曼荼羅寺。「○○二番 十王 十人組」。川口。大師堂前。

74番 医王山 甲山寺。「七十四番 光山寺」。川口。大脇田。

75番 五岳山 善通寺。「善通寺 六人組」。川口。みねぎ。

76番 鶏足山 金倉寺。「金倉寺 願主」。川口。井戸横。

77番 桑多山 道隆寺。「道○寺 九人組」。川口。トウスヤ。

80番 白牛山 国分寺。「国分寺」。川口。表参道伝六ロード交差点。左奥。

82番 青峰山 根香寺。「八十二ばん 永天寺」。川口。林勝。祠の外。

83番 神毫山 一宮寺。「一ノ宮寺 末廣講中」。丸山。丸小山登り口。

84番 南面山千光院 屋島寺。「八十四ばん 矢島寺 四人組」。丸山。丸小山山頂。

85番 五剣山 八栗寺。「八栗寺」。丸山。丸小山の東。

86番 補堕落山 志度寺。「八十六ばん 志度寺」。丸山。峯松孝好氏宅。 

88番 医王山 大窪寺。「八十八ハん」。一本松。背後壁面。

               (因島重井町文化財協会、住原俊治、柏原林造)

 

9。因島と周辺の霊場   住原俊治   [p.47]

 

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因島 村上長右衛門

しげいみち

 

重井のみならず因島初代割庄屋を務めた長右衛門及びその家系について述べる。

 

田中稔因島史考」p.117の因島村上氏系譜によると初代長右衛門は因島村上氏6代、青木城主村上吉充の弟吉清の子息である。

初代長右衞門 

 彦右衛門。

 因島割庄屋。環鷹院心月元照居士。正保2年11月24日没。

 室 萃月院佳屋妙咲大師。正保元年10月27日没。

 慶長16年3月重井伊浜八幡宮造営。 

   総役 善興寺

   旦那 三良右衛門

      彦左ヱ門

      彦右衛門

      伊川伊勢守

   遷宮法師桂大宥遍

      供僧十二人

 

参考文献

 田中稔因島史考」

 「伊濱村上家系譜」

尾道市因島・ ふるさとの史跡をたずねて 瀬戸内タイムズ連載

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****著者の言葉****

ご愛読と感想と激励を感謝いたします。

 

下のページは初め頃書いていた補足です。でも続かなくなりました。

それに、関連写真や地図なども、上記リンクの各町の中に書くべきですが、やはり、時間がなく、誠に不親切なブログになっております。

 

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      最近の感想

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《120回》先ほど120回の原稿と写真を編集部へメールで送りました。100回までを第一部として村上水軍関連史跡を中心にその周辺を書いてきました。そして100回を超えたら、江戸時代、すなわち近世農村社会を描くつもりで、干拓をキーワードにして途中脱線しながら進めています。それで150回あたりを区切りに江戸時代でも、後半は宗教を中心に見ていくのがいいかと思います。200回を区切りとして明治時代に入ります。そのテーマを何にしましょうか。2019.2.6.

 

 

《3段》いつの間にか、3段組になってしまいました。重井の長右衛門に書いていたつい力が入ってしまい、写真が小さくなってもよいかと、やや長めに書いたら、写真を大きくして三段にしてくれました。しばらくして、三段を続けるかと編集の方から問い合わせがあり、それでよしと答えておきました。これくらいの量なら、ややつまらないことも書けて、より読者の方に楽しんでいただけるのではないかと思っています。2019.1.16.

 

《近世》110回を突破しました。近世では農村社会を建設する中心の庄屋が村上氏の子孫や、武将たちの子孫であったことと、その仕事の中心を干拓に見ようというのが近世前半のねらいです。後半は宗教にしようかとおぼろげながら考えています。ただ、近世を200回までにするか150回あたりで明治に入るかは、今のところ未定です。2018.11.30.

 

《100回》97 回の原稿を送りました。そろそろ100回になります。これまで周辺の道草は時代とは関係なく書いてきましたが、根底には中世、すなわち因島村上氏の時代を置いていました。それで100回を機に近世に入ってみようと思っております。2018..8.15.

 

《分家》因島村上氏の分家として田島分家、大浜分家、百島分家、岩城・田熊分家と書いてきました。残りは鞆分家だけです。鞆がおわったら道草をしながら、弓削、生名の関連城跡を訪ねましょう。大島などに行ってもよいのですが、やはり、因島へ話を戻した方がよさそうですね。  2018.3.3.

 

《文筆業》1週間、休みだったのですっかりペースが乱れてしまった。おまけに前回の時2回分書いてあったので、こちらはずっとご無沙汰だった。水曜日が締切日だったので送付して、貯金を使い果たした。と、言って書くことをやめていたのではない。別の原稿に追われていた。それも水曜日に片がついたので、次は別の校正が明後日の土曜日の午後まで。こちらは文章というよりも構成の方の変更がやっかい。その後、明日の古文書解読文を打って、解説を書いて・・。その間に次の水曜日が来る。ということでまるで文筆業である。嫌いではない。憧れの、と言っていい。しかし、いつも、こういう生活をやめて、暖かい日差しの入る部屋で、寝転んで本を読みながら昼寝をするという生活に切り替えたいとも思う。しかし、そうしたらそうしたで、その生活にすぐに飽き、何か書きたくなるに違いない。そういうことがわかっているので、やはり今の生活を至福の時だと思わないといけない。物書より画家の方が長生きだと、常々思っている。しかし、画家にはなれない。長生きは出来なくとも好きなことをやるのが一番である。  2018.2.15.

 

《本》本として出して欲しいという、嬉しいお言葉は度々お聞きするのであるが、書いたものよりも、これから書くことの方がおもしろいので、地図や写真を追加する気にならないのです。それは、ここのページの下の方が途中で続かなくなったのと同じ傾向です。もう若くはない。あと、どこまで書けるかわからないので、書けるうちにできるだけ書いておこうと思うのです。2018.2.7.

 

 

《ついで》最近やたらと「ついで」という言葉を使っているが、「・・に次いで・・・」と言うのは聞くのであるが、「ローソンへ行ったついでにおにぎりを買ってきた」というのはおにぎり以外の目的物があって、それを買ったついでに、と書いているのだが、このような用法は標準語にあるのだろうか? この辺の方言かもしれない。まあ、ローカルな話だから、それでいいのだけれど。2018.2.6.

 

《帰郷》

 2月になりました。首都の方では雪だというのに、こちらは春めいております。そういえば1月の27日でしょうか。夕方、みつばちヒバリ道路を歩いていると、早くもヒバリが鳴いていました。

 岩城4回の後、伯方島へ1度だけ寄り道をして因島へ帰ります。2回。その後再び旅へ出ます。福山です。3回。そのついでで三庄1回。それから、因島の山へ・・というようなことを考えています。そのようになるかどうか。2018.2.1.

 

七色仮面

 肩書きは使いたくなかったのであるが、ひょんなところで、一つ使ってしまった。元旦のレポートは特派員として、福山の文学館は例の会の代表としてお願いしたのだから、というのが編集氏の弁。こちらは一つの体、一つの頭。

 肩書きをいちいち書いていると、七色仮面になって、本当の顔はどれでしょう、ということになってしまう。

 それと、まさに「お里が知れる」ということになって、いったん知られてしまうと、居直って、のめりこんでしまうのが、こわい。文章を書くものにとって、「お里」ほどこわいものはない。2018.1.26.於福山

 

 

《空想旅行》

 実際には別の日に別の順序で行っているのに、紙上では毎週(すなわち一週間に一度)、頭の中のストーリーに従って移動する。だから「空想旅行」。寒くて行けない時、忙しくて行けない時などでも、必ず一週間に一度はどこかに行く。だから、遠くへ行くと余計に楽しい。岩城の後は竹島と田熊の予定だったが、その前に伯方島へ行こう。そしてトウビョウ鼻で聞いた潮騒の音を、書きながら思い出そう。2018.1.14.

 

《予定など 3》

 江戸時代に入る前に書いておかないところがまだあった。伯方島と生名島だ。

 ちぐはぐだが、鏡浦、椋浦の次に一回ずつ書いておこう。2018.1.9.

 

《予定など 2》

 すでに書いたことに補足説明を加えるより、先の予定を考えることの方がはるかに楽しい。補足になると、言い訳をしているような感じで気持ちはよくない。限られた字数で、持てる力を最大限に発揮する。それだけだ。だから、一発勝負だ。直そうとして直るものではない。

 村上分家を鞆分家で終わったらどうするか。村上氏の因島退去から江戸時代へ入る。それが一番流れとしてよい。しかし、因島には村上氏と関係ない城跡がある。椋浦と鏡浦だ。江戸時代から、こちらへ戻るのもおかしいから、江戸以前に何回か取りたい。

鏡浦で5回、椋浦で3回。・・・アンバランスだ。いや、平均したら4、4で許せる。

2018.1.6.

 

《予定など》

 正月前に2回分だしたので、楽になると思っていたら、すでに締切が迫ってきた。金曜日に編集印刷で土曜日発行だから、木曜日提出は守ったきたのであったが、11月頃から木曜日編集に変わったので水曜日を原稿締切として欲しいと連絡があったので了解した。

 毎週土曜日に紙版を見てから次の回の執筆をすることにしているので、推敲時間が減ったということである。まあ、仕方がない。

 ずっと先のことも考えておかないといけない。

 今の村上分家を、岩城で4回。竹島で2回。鞆で1回、遊びが何回か欲しいが・・。(2018.1.2.siosaisouにて)

 

 

《これまでの経過など》

 因島村上氏の本城として土生長崎、向島余崎、重井青木 としてそれぞれ4回書きました。

 次に五家老について、その関連したところをそれぞれ4回書きました。

 その後、船奉行片山氏について三庄と重井をそれぞれ2回書きました。

 読者の方も慣れてくださったので、多少話が飛んでも混乱は少ないだろうと考えて、これまでの4回ずつというのをやめて細島から気ままに書くことにしました。

 細島は因島の属島のうちの唯一の有人島です。フェリーで簡単に行けますが、行って何するん? 帰りのフェリーまで暇で困るじゃん! という人が多いようですので、少し多めに書きました。まだまだあるのですが、それはまた後ほど。

 その後、細島の次から分家筋を書くことにしました。ただし4回に限定せずに気ままに書きたいと思っております。だから大浜は6回になります。田島分家と大浜分家を平均すると4回になりますからバランスはとれるようです。  バランス?・・・(2017.12.8.福山にて) 

 

以下のページは初め頃書いていた補足です。 

 

 

 

地図を入れた補足を書く予定でしたが、時間的余裕がなくなりました。悪しからず。

1〜5のリンクと関連写真 6〜10のリンクと関連写真 11〜15のリンクと関連写真 16〜20のリンクと関連写真

 せとうちタイムズの連載「ふるさとの史跡をたずねて」web版へのリンクと関連写真などです。web版は紙版より少し遅れます。 

 

 

1 釣島箱崎浦の合戦跡(因島土生町箱崎) 2016.8.6.

 2   島前城跡(因島土生町箱崎) 2016.8.13.

 3 茶臼山城跡(因島中庄町茶臼) 2016.8.20.

4 徳居屋敷(因島中庄町徳井) 2016.8.27.

5 掛迫農道(因島中庄町通り谷) 2016.9.3.

6 妙泰神社(因島土生町明体) 2016.9.10.

7 三庄の妙泰神社(因島三庄町三区) 2016.9.17.

8 青影落葉の神(因島土生町郷区) 2016.9.24.

9 三子松(因島土生町三子松) 2016.10.1.

10 狸藪(因島三庄町一区) 2016.10.8.

11 馬の墓(因島田熊町中区) 2016.10.15.

12 岡野明神(因島田熊町中区) 2016.10.22.

13 藤原神社(因島田熊町中区) 2016.11.5.

14 妙泰夫人の墓(因島田熊町浄土寺) 2016.11.12.

15 耳明神社(因島土生町大山神社) 2016.11.19.  

16 藤原泰高の墓碑(因島土生町対潮院) 2016.11.26.

17 鍛冶神社跡(因島土生町串畑) 2016.12.3. 

18 長崎城跡(因島土生町荒神平) 2016.12.10.

19 荒神山城跡(因島土生町荒神平) 2016.12.17. 

20 弓場馬場跡(因島土生町平木) 2016.12.24.

21 長源寺跡(因島土生町箱崎) 2017.1.1.

22 余崎城跡(尾道市向島町立花) 2017.1.7.

23   白石島(尾道市向島町) 2017.1.14. 

1〜5のリンクと関連写真はこの下です。

  6〜10のリンクと関連写真

  11〜15のリンクと関連写真 

      16〜20のリンクと関連写真

1 釣島箱崎浦の合戦跡因島土生町箱崎) 2016.8.6.

**地図**

 

*****

あれや、これやと、好きなところへ飛んで、全体としては、幾つもの流れが立体的に描かれていた、という具合にしたかったが、それでは読者の方が混乱されるので、単線型でいくことにした。

 

因島村上氏のことを語るには、天授3年(1377)の釣島箱崎浦の戦いから始めるのがよいだろう。因島村上氏が来島したのが、この戦いの結果だというのは伝説かもしれない。しかし、話としてはわかりやすい。考証は歴史家に任せて、ここから始めることにしたい。

 

当面、村上水軍の話をする。村上海賊と、最近では呼ばれているが、今更村上海賊でもなかろう。水軍でも海賊でも言葉の制約があり、十分ではないのだから、これまでどおり村上水軍でいく。しかし、水軍という独立した地位があったわけではないので、この言葉もできるだけ使わないつもりである。因島村上氏という言い方がよいと思っている。そして、時に水軍や海賊の顔があったのだろう。

今岡通任(みちとう)に勝った村上師清(もろきよ)が3人の子供たちを、能島、来島、因島に配した。それが、三島村上氏の時代の始まりだという。後期村上水軍の時代だともいう。

前期村上水軍の時代は村上義弘の死とともに終わる。

村上義弘因島青陰城主だったというのは伝説である。後期の始まりが伝説であるから、前期のおしまいが伝説であっても構わないが、村上義弘因島にいたとすると、話がややこしくなるので、とりあえず引っ込んでいてもらうことにする。

それで第一回目は箱崎の江の内公園にある古戦場跡の史跡碑(木製)を訪ねる。箱崎漁港の向かいに当時釣島、今は鶴島と呼ばれている小島が見える。海と島のコントラストが美しい。悲惨な戦いのことに思いをいたすよりも、同じところがこんなに美しく今も存在するということが不思議だ。 

写真とリンク

釣島箱崎浦合戦跡

因島城跡物語 釣島箱崎浦合戦

 

敗者の多くは、この時点で歴史の舞台から去っていく。だから、まず敗者の側から書いていこう。

 2   島前城跡因島土生町箱崎) 2016.8.13. 

0845.boo.jp

*****地図*****

 

 

***********

2回目は島前城跡です。すなわち、現在因島図書館のあるところです。

因島図書館へ行って、村上水軍の本を借りる人は多い。しかし、その場所が、村上水軍関連の城跡だということに、思いをはせる人は意外に少ない。

ここは因島村上氏の時代はもちろん、それ以前にも重要な城跡である。それで、まずは釣島箱崎浦の戦いの時の話をしよう。

釣島箱崎浦の戦いで勝った村上師清が子息吉豊を長崎城主にするのが因島村上氏の始まりです。(という伝承に基づいて話を進めます。) 

村上師清と戦った相手は今岡通任(みちとう)です。 

 今岡通任が城主だったのが島前城ということで、今回は島前城跡を取り上げました。

1回目の古戦場跡の史跡標(木製)のある公園(江の内公園)から少し北です。

リンク

島前城跡

島前城跡物語 

 

3 茶臼山城跡(因島中庄町茶臼) 2016.8.20.

 

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*****地図*****

 

 *************

ここで舞台を中庄へ移します。古くから開けた中庄には多数の史跡があります。その中ではやや、マイナーな感じのする茶臼山城跡です。

釣島箱崎浦の戦いで、今岡通任と共に村上師清と戦って、負けた大鳥氏のいたのが茶臼山城跡です。だから、中庄というわけです。釣島箱崎浦の戦いの話が終わったわけではありません。ここで、茶臼山を出しておかないと後の話がわからなくなります。そして、中庄の茶臼山へ来ると、1回では終わりません。そういうわけで、ナティーク城山の因島村上氏の時代は、まだまだ始まりません。今しばらくお待ちください。せっかちな人は因島病院へ行って、「因島城跡物語」のパネル24枚を見てきて下さい。

 

リンク

 ウェヴ版では、いっぱい写真を使ってもらって、持ち駒を放出しきった感じです。だから、以下のリンクは変わりばえしませんので、あしからず。  

 茶臼山城跡 茶臼神社 茶臼山城跡探訪 

 

4 徳居屋敷(因島中庄町徳井) 2016.8.27.

0845.boo.jp

***地図

 

*** 

 ここで徳居屋敷を出してよいのか、私自身もためらいがある。釣島箱崎浦の戦いの話が終わったわけではない。今岡通任とともに戦った大鳥氏らの茶臼山城跡を紹介した。その茶臼山の東麓に徳居屋敷はある。「江戸時代の武家屋敷の面影を留める」ということだから、時代を江戸時代の初期と考えてもそれよりも200年以上前の大鳥氏とは関係は見つけにくい。

今岡氏は河野水軍である。大鳥氏が河野水軍であって、その関係者が茶臼山周辺に住んでいた・・・としよう。その中に徳居(井)という人がいた。その人の子孫が代々徳居屋敷に住んでいればよいのだが、可能性としては少ないだろう。血は繋がらないけれど、田頭さんと同じような気持ちで徳居と名乗ったのかもしれない・・・。そう考えて、茶臼山城跡の一景に徳居屋敷を加えた。

なお、田頭家は弓削の鯨(現在久司浦)の宇多城を作った人たちの子孫である。

リンク

徳居屋敷 宇多城跡

 

5 掛迫農道(因島中庄町通り谷) 2016.9.3.

 

0845.boo.jp

***地図***

******

まず、誤植のお詫びから。

紙版、下段本文12行目

土生開ができる前はありえない。

は、

土生開ができる前はありえない。

です。すなわち「新」の字が落ちています。

土生新開というのは鹿穴(ししあな)から東へ伸びる干拓地です。

ですから、昔は片刈山の周辺は海だったのです。

今、ゲートボール場になっているところにあった片刈池は干拓地に作った溜め池だったのです。昔、私の祖母は「ひょうたん池」と呼んでいましたが・・・。

 

西浦峠(青影隧道の上)から、田熊へ続く道があるのを知らない人には、この話は難しいかもしれません。対向車と出会うと大変だけど、けっこう楽しい道です。

だから、西浦峠まで行けば、良いわけです。

あるいは、山口から大山峠を越えるルートもあったでしょう。でも、現在中庄公民館があるところよりももっと奥まで海だったわけですから、やはり西浦峠へ近づかないといけません。

 

ちょっと中庄で道草をしすぎましたね。まだ、釣島箱崎浦の戦いの話は終わってないのですから、次回は土生に舞台を戻します。

 

リンク

中庄越(運動公園から西浦峠) 中庄越(西浦峠)

 

ここで中断のお詫びです。

忙しくてこちらの続きが書けなくなってしまいました。

まだ因島村上氏の話が続いております。もうしばらく続けましょう。2017.12.8.

 

 

 

 

 

1〜5のリンクと関連写真 6〜10のリンクと関連写真 11〜15のリンクと関連写真

  

 

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第2回 2016.6.21.資料 (共催:因島白滝公園保勝会) 

 

第2回20160621
1。村上水軍について 2 大浜の城跡     
[p.11-12]

2。白滝山について 2 沿革         [p.13-16

      五百大羅漢 寄附録        [p.17-20]  

3。大出万吉翁と重井バプテスト協会        [p.21] 
4。弘法大師空海へのアプローチ 2「空海の風景[p.22]
5。因島の潜水艦事故 -小説に出てくる因島-         [p.23-24] 
6。道元禅師へのアプローチ 2「正法眼蔵」   [p.23-24]  
7。江戸時代の農作物                                                [p.25]
8。重井村四国八十八か所札所について                     p.26

 

 

リンク

大浜探訪  

おおはまみち

内海町 内海大橋 天神山城跡 常楽院 町の街並み 

百島町 茶臼山城跡

(https://familysearch.org/photos/stories/12083796)

 

 写真➡️悲運の伊33号潜水艦 三庄ドックでの最期の姿 読者から寄せられた写真 | せとうちタイムズ

 

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会 

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因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第1回 2016.5.17.  

 

第1回 20160517

[p.1-2 ]  [p.3-5]  [p.6-7] [p.8]  [p.9]  [p.10]

 

第1回20160517 

レジメ [p.1-2 ]

   レジメの部分は以下の各ページの冒頭に再録しております。

1。白滝山について 1              [p.3-5]

2。村上水軍について 1 馬神城跡をめぐって     [p.6-7]

3。真珠の養殖                     [p.8]

4。道元禅師へのアプローチ 1「正法眼蔵随聞記」 [p.9]

5。弘法大師空海へのアプローチ 1「鯖大師」       [p.10]

 

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因島と文学・文芸

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➡️図書館でふるさとを知る会〜因島と文学 

 

井伏鱒二に始まる

 福山市出身の作家・井伏鱒二は大正6年10月、進学したばかりの早稲田大学を休学して因島三庄町の土井医院に半年近く滞在した。後に因島を舞台にした作品が数点書かれた。因島井伏鱒二について因島高校の石田先生が課題研究で取り上げた。そのことを取材した「せとうちタイムズ」主筆の青木忠さんは井伏作品を読むとともに、月一回因島図書館で井伏鱒二因島作品を読む会を立ち上げた。これが「図書館でふるさとの歴史を知る会」(毎月第三水曜日)である。途中で青木さんが来られなくなったので、代表を交代して現在まで続いている。

その会では、井伏鱒二の作品を交代で朗読するとともに情報を交換した。その中で他の作家のことも話題になった。そのような経緯からのちに、井伏鱒二以外の作家の作品を読むようになった。

ここでは、それらの作品も取り上げ、紹介する。

 

図書館でふるさとを知る会

林芙美子

瀬戸内寂聴

吉村昭

今東光

村上元三

佐々木基一

湊かなえ

葛原しげる

木下夕爾

石森延男

新藤兼人

吉井勇

江藤淳

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

文学碑

 歌碑

 句碑

 詩碑

 文学碑

 

因島出身作家

 

 

因島の出てくる作品

 吉村昭「全員起シ」

 

因島を訪ねた作家

 林芙美子

 瀬戸内寂聴

 古川薫